日本史人生シミュレーター

鍋島直正(閑叟)

佐賀藩主・近代化の先駆者
時代:江戸末〜明治時代 / 1815年〜1871年(56歳ほど)
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歩んだ道

1815年

誕生

江戸の佐賀藩邸で、9代藩主・鍋島斉直の子として生まれた。幼いころから儒学者の古賀穀堂が教育係となり、学問と、藩の政治を改める心構えを教えた。穀堂の教えは、のちの直正の改革に大きな影響を与えた。

1830年

若き藩主の決意

父から家督を継ぎ、佐賀藩の10代藩主となった。藩は大きな借金をかかえており、初めて佐賀へ向かうとき、江戸の藩邸に借金取りが押しかけて行列がなかなか出発できなかったと伝わる。直正はこの屈辱を胸に、藩を立て直す決意を固めた。

1835年

財政の立て直し

このころから、役人の数を減らし、倹約を徹底し、借金の返し方を交渉で改めるなどして、藩の財政を立て直していった。さらに陶磁器(有田焼)や石炭、ろうなどの産業を育てて収入を増やした。改革は家臣の反発も受けながら、少しずつ成果を上げた。

1840年

藩校・弘道館の拡充

藩校の弘道館を広げて、家臣の子どもたちに学問を義務づけ、成績の悪い者は役につけないほど厳しくしたと伝わる。この学校から、のちに明治政府で活躍する大隈重信・江藤新平・副島種臣・大木喬任らが育った。

1849年

種痘を広める

天然痘を防ぐ種痘を広めるため、オランダ商館の医者を通じて牛痘の苗を取り寄せさせ、まず自分の子の淳一郎(のちの直大)に種痘を受けさせた。藩主の子が受けたことで人々の不安がやわらぎ、種痘は佐賀から各地へ広がっていった。

1850年

反射炉と鉄の大砲

長崎の警備を任されていた佐賀藩は、外国の軍艦に備える必要を強く感じていた。直正は洋書を手がかりに日本で初めての実用的な反射炉を築かせ、失敗を重ねながら鉄製の大砲を造ることに成功した。のちに幕府の品川台場にも大砲を納めた。

1852年

精錬方をつくる

西洋の科学技術を研究する役所「精錬方」をつくり、化学や機械、蒸気機関などの研究をさせた。身分にこだわらず、才能ある技術者を各地から集めたことが、佐賀藩を日本でも最先端の技術をもつ藩に押し上げた。

1855年

海軍を育てる

幕府が長崎に開いた海軍伝習所に、多くの藩士を学ばせた。のちには藩の三重津に海軍の訓練と船の修理の場(三重津海軍所)をつくり、西洋式の海軍を育てた。直正は自ら外国の軍艦に乗って見学するほど、新しい技術に強い関心をもっていた。

1861年

隠居して閑叟と名乗る

藩主の座を子の直大に譲って隠居し、閑叟と名乗った。しかし実際には引き続き藩の政治と技術の研究を指導した。幕末の激しい政治の争いには深入りせず、藩の力をたくわえることに力を注いだため、「肥前の妖怪」とも呼ばれたと伝わる。

1865年

国産の蒸気船

三重津海軍所で、日本で初めての実用的な国産の蒸気船「凌風丸」を完成させた。外国から船を買うだけでなく、自分たちの手で造ろうとした直正の考えが形になったもので、日本の造船の歴史に残る出来事となった。

1868年

戊辰戦争と新政府

佐賀藩は新政府の側につき、戊辰戦争では藩の近代的な兵器と兵が大きな力を発揮した。とくに上野の彰義隊との戦いでは、佐賀藩のアームストロング砲が使われたと伝わる。藩の技術力が、新しい時代を開く力となった。

1869年

北海道開拓の長官

新政府で北海道の開拓を進める開拓使の初代長官に任じられた。北の土地の開発に強い関心をもっていたが、体調などの理由でまもなく職を離れ、その後は大納言などをつとめて新政府を支えた。

1871年

最期

東京で病のため亡くなった。財政を立て直し、教育と科学技術に力を注いで佐賀藩を近代化した直正の改革は、大隈重信らの人材と技術を通じて明治の日本の近代化に引きつがれた。

この時代に起きたこと

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関係する人物

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