何をした人?
戦国時代から江戸時代初めの武将で、土佐藩の初代藩主です。尾張の生まれで、織田信長と豊臣秀吉に仕え、遠江の掛川城主となりました。関ヶ原の戦いの前の小山評定で城を徳川家康に差し出すと申し出たことが認められ、土佐一国を与えられて高知城を築きました。妻の千代の内助の功でも知られます。
| 名前 | 山内一豊 |
|---|---|
| 生没年 | 1545年(天文14年(諸説あり)) – 1605年(慶長10年) |
| 時代 | 戦国〜江戸時代 |
| 出身地 | 尾張国 |
| 主な業績 |
|
尾張国(愛知県)の岩倉に、尾張の北部を治める岩倉織田氏の家老・山内盛豊の三男として生まれたとされる(生まれた場所には黒田城とする説もある)。通称は伊右衛門。山内家は小さな武士の家で、一豊は若いころから苦労の多い道を歩むことになる。
主家の岩倉織田氏は同じ一族の織田信長と対立していた。兄の十郎が黒田城を襲われて命を落とし、この年には岩倉城が信長に攻め落とされ、父の盛豊も亡くなった(年には諸説あり)。主家と父を失った山内一族は散り散りになり、一豊は各地の武将に仕えながら暮らした。
このころ信長に仕え、羽柴(豊臣)秀吉の配下となったと考えられている。朝倉氏を追った刀根坂の戦いでは、顔に矢を受けて重傷を負いながらも敵の武将を討ち取った。この手柄で近江に400石を与えられ、ようやく武士として身を立てる足がかりを得た。
このころまでに、のちに見性院と呼ばれる千代(まつとも)と結婚したと考えられている(時期には諸説あり)。千代は夫をよく支えた妻として知られ、嫁入りのときに持ってきたお金で一豊に名馬を買わせ、信長の馬揃えで評判になったという話が伝わる。ただしこの話は後の時代の書物にしか見えない。
播磨(兵庫県)に2000石の領地を与えられ、秀吉の中国地方攻めに加わった。三木城や鳥取城の包囲、備中高松城の水攻めなど、秀吉の主な戦いに従った。華々しい大将ではなかったが、命じられた仕事を確実にこなす家臣として、少しずつ領地を増やしていった。
秀吉の甥の羽柴秀次が大きな領地を与えられると、その補佐役である宿老の一人に選ばれた。近江の長浜城主となり、2万石を治める大名となった。翌年に起きた天正地震で長浜城が崩れ、幼い一人娘の与祢を失うという悲しい出来事もあった。
小田原の北条氏攻めに加わったあと、遠江(静岡県)の掛川城主となり、5万石あまりを治めた。掛川では城の修築と城下町づくりを進め、洪水の多い大井川の堤防工事にも取り組んだ。のちに秀次が失脚して亡くなった事件でも、一豊は罰されずに領地を保った。
秀吉の死後、徳川家康に従って会津の上杉景勝攻めに向かった。石田三成らが兵を挙げたと知らせが届くと、下野の小山で開かれた軍議で、真っ先に自分の掛川城を家康に明け渡すと申し出たと伝わる。この発言が、迷っていた東海道の大名たちを家康方にまとめる力になった。
関ヶ原の戦いでは大きな戦闘には加わらなかったが、小山での発言が大きな手柄と認められた。戦いの後、長宗我部氏が領地を失った土佐国(高知県)一国を与えられ、9万8000石の大名となった(のちの検地で20万石あまりとされた)。
掛川から土佐に移って浦戸城に入った。長宗我部氏の旧家臣たちは新しい領主に強く反発して一揆を起こし、一豊は厳しい態度でこれをおさえた。一方で、役に立つ旧家臣は取り立てた。大高坂山に新しい城(高知城)を築き始め、城下町を整えた。
高知城で病のため亡くなった。跡継ぎの実子がいなかったため、弟の康豊の子の忠義が養子として跡を継いだ。山内家はこの後、江戸時代の終わりまで土佐藩を治め続けた。妻の千代は京都に移り住み、夫の菩提を弔いながら晩年を過ごした。
A. 戦国時代から江戸時代初めの武将で、土佐藩の初代藩主です。尾張の生まれで、織田信長と豊臣秀吉に仕え、遠江の掛川城主となりました。関ヶ原の戦いの前の小山評定で城を徳川家康に差し出すと申し出たことが認められ、土佐一国を与えられて高知城を築きました。妻の千代の内助の功でも知られます。
A. 戦国〜江戸時代の人物です。1545年(天文14年(諸説あり))に生まれ、1605年(慶長10年)に亡くなりました。
A. 山内一豊は尾張国の生まれです。
A. 一豊の妻の千代(見性院)は、夫をよく支えた「内助の功」で知られます。嫁入りのときに持ってきたお金で夫に名馬を買わせたという話が有名ですが、これはのちの時代の書物に見える話で、事実かどうかは諸説あります。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。