相模国小田原で、小田原藩の医者の家に長男として生まれた。本名は門太郎という。祖父は藩医だったが、明治維新で家は苦しくなった。父は新政府の学校で学んで役人となった。のちに明治の文学に新しい風を吹きこむ評論家・詩人となる。
両親と弟が東京へ移ったとき、門太郎だけが小田原の祖父母のもとに残された。厳しい祖父と愛情の薄い継祖母に育てられ、のちには神経質な母にしばられたことが、繊細な性格をつくったといわれる。
一家で東京の京橋に移り住み、泰明小学校に通った。このころ盛り上がっていた自由民権運動に強くひかれた。この年、鎌倉までお金を持たずに歩いて旅をしたこともあり、自由へのあこがれを早くから抱いていた。
民権運動家の大矢正夫や、自由党員の石坂昌孝と知り合い、石坂の長男公歴とも親しくなった。この年、のちの早稲田大学である東京専門学校の政治科に入学した。翌年には同じ科で宮崎湖処子と出会っている。
自由党の左派が朝鮮での革命を計画した大阪事件で、友人の大矢正夫は資金を得るため強盗まで計画し、透谷も誘われた。深く悩んだすえ、透谷は政治運動から離れた。この挫折が、のちに文学へ向かうきっかけとなった。
東京の数寄屋橋教会で洗礼を受け、キリスト教徒となった。同じ年、石坂昌孝の長女ミナと結婚した。ミナには親の決めた婚約者がいたが、二人は強く愛し合い、周囲の反対をこえて結ばれた。この経験がのちの恋愛論の土台となった。
自分の暗い心の内と、愛と自由をうたった長い詩『楚囚之詩』を自費で出版した。しかし出版の直後に後悔して、自ら回収してしまった。また来日したクエーカー教徒ブレスウェイトの通訳をつとめ、平和主義に共鳴して日本平和会の結成に加わった。
クエーカー派の普連土女学校で英語の教師となり、芝公園に移り住んだ。生活は楽ではなかったが、教えながら詩や評論の筆を進めた。翌年には劇詩『蓬莱曲』を自費で出し、劇の上演会で坪内逍遥と出会って訪ねるようになった。
評論「厭世詩家と女性」を『女学雑誌』に発表し、「恋愛は人生の秘鑰なり」と述べて大きな注目を集めた。恋愛を人生の大切な鍵ととらえる考えは、若者たちに強い衝撃を与えた。この年、島崎藤村と知り合い、平和会の機関誌『平和』の主筆も務めた。
島崎藤村や星野天知らと雑誌『文学界』を始め、浪漫主義の運動を引っぱった。「人生に相渉るとは何の謂ぞ」で、文学は世の役に立つことより人間の深い真実を求めるべきだと説き、山路愛山と論争した。『内部生命論』で心の自由も訴えた。
理想と現実の食い違いに苦しみ、心の病をわずらって、この年の5月に東京の自宅で自ら命を絶った。あまりに早い死だった。その年のうちに藤村らが遺稿集『透谷集』をまとめ、その思想は藤村ら後の文学者に大きな影響を与えた。
幸田露伴尾崎紅葉横山大観秋山真之志賀潔国木田独歩幸徳秋水樋口一葉
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。