伊予(愛媛県)の松山で、松山藩士・秋山久敬の五男として生まれた。家は貧しく、のちに日本の騎兵の育ての親と呼ばれる兄の秋山好古が、学費を出して弟を支えた。
東京へ出て、翌年大学予備門に入った。同じ松山出身の幼なじみ・正岡子規と親しくつき合い、二人は文学について語り合う親友だった。
兄に学費の負担をかけないこともあって大学予備門をやめ、海軍兵学校に入った。子規とは別の道を歩むことになったが、友情は生涯続いた。
海軍兵学校を首席で卒業し、海軍の士官としての道を歩み始めた。のちの日清戦争にも軍艦に乗って加わった。
アメリカへ留学し、海軍戦略の大家マハンに教えを受けた。翌年の米西戦争では、アメリカ艦隊の作戦を間近で観察し、くわしい報告書を書いた。
親友の正岡子規が病のため亡くなった。この年、日本とイギリスの間に日英同盟が結ばれ、ロシアとの緊張が高まっていた。
日露戦争が始まると、東郷平八郎のもとで連合艦隊の作戦参謀となった。旅順港の入り口に船を沈めてふさぐ作戦なども立てたが、この作戦では友人の広瀬武夫が命を落とした。
ロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ日本海海戦の作戦を練った。出撃のときの電報の「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の一文は、真之が書き加えたとされる。海戦は日本の大勝利に終わった。
海軍省の軍務局長となり、海軍の政策の中心で働いた。第一次世界大戦が始まると、戦争のようすを研究し、これからの戦争のあり方を考え続けた。
海軍中将に進んだ。しかしこのころから体調をくずし、また宗教や人の心の問題にも深い関心を寄せるようになった。
病のため、神奈川県の小田原で亡くなった。日露戦争の名参謀として知られ、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』では、兄の好古や子規とともに主人公として描かれている。
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