横浜で、福井藩の商人の子として生まれた。本名は覚三。
東京大学を卒業し、文部省に入った。
フェノロサとともに古い寺の宝を調べ、法隆寺の夢殿で長く秘仏とされていた観音像の扉を開けた。
東京美術学校(今の東京藝術大学)の校長となり、日本の美術を育てた。
学校を追われ、横山大観や菱田春草らと日本美術院をつくった。
英語で『東洋の理想』を書き、「アジアは一つ」と説いた。
アメリカのボストン美術館で、中国と日本の美術品の部門を任された。
英語で『茶の本』を出し、茶の湯を通して日本の心を世界に伝えた。茨城の五浦に拠点を移した。
新潟の赤倉の山荘で病のため亡くなった。
内村鑑三田辺朔郎森鷗外新渡戸稲造津田梅子二葉亭四迷川上音二郎黒田清輝
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。