何をした人?
戦国時代の堺の商人で、茶人です。京都で三条西実隆に和歌や連歌を学び、出家して紹鴎と名のりました。村田珠光の茶の湯を受け継ぎ、和歌の心を取り入れた、飾りすぎない落ち着いた「わび茶」を深め、弟子の千利休らを育てたと伝わります。生まれは大和国とする説などがあります。
| 名前 | 武野紹鴎 |
|---|---|
| 生没年 | 1502年(文亀2年) – 1555年(弘治元年) |
| 時代 | 戦国時代 |
| 主な業績 |
|
大和の吉野で生まれた。幼い名は松菊丸。家の系図では若狭の武田氏の流れをくむとされ、祖父が戦で亡くなったあと、父の信久は各地をさまよい、武野と名を改めたという。父はやがて和泉の堺に住みつき、皮や武具をあつかう商いで財をきずいた。
父のもとをはなれ、京都の室町通四条に住み始めた。翌年には連歌の会に加わった記録が残っている。三十歳になるころまで連歌師として活動したとされ、言葉の響きや季節の感じ方をみがいた。この経験は、のちの茶の湯の美しさの考え方につながった。
当時いちばんの文化人だった公家の三条西実隆を訪ね、たびたび立派な土産を持って通い、和歌や古典を教わった。実隆からは、良い歌には稽古の積み重ねと自分で新しく工夫することが大切だと学び、藤原定家の『詠歌大概』の序も伝えられた。その心を茶の湯に生かしたといわれる。
京都の大徳寺の古嶽宗亘のもとで出家し、紹鴎の名を受けた。このころ、浄土真宗と法華宗の人々の争いが京都や堺で激しくなっていた。父が浄土真宗と縁があったため、争いに巻きこまれることをおそれて禅の道に入ったとも考えられている。
故郷の堺へ移り住んだ。大徳寺の末寺である堺の南宗寺で、僧の大林宗套のもとで禅の修行を重ね、大黒庵と名のった。堺は海外との貿易で栄え、町の人々が自分たちで町を治める豊かな町だった。紹鴎は豪商として、また茶の湯の名人として知られていった。
このころ、奈良の漆問屋の松屋を訪ね、そこに飾られていた美しい白鷺の絵を見て、村田珠光の茶の心にふれたと伝わる。珠光は豪華な表装をあえて地味なものにかえていた。はなやかさとひかえめさの組み合わせに、茶の湯の深い味わいを見いだしたという話である。
奈良の塗師で茶人の松屋久政ら三人を茶会に招き、床に中国の玉澗の水墨画を飾り、名高い唐物の茶壺「松島」を使ったことが記録に残る。中国から渡った名品を大切にしながら、和歌の心を茶の湯に取り入れ、和歌の書を茶席にかけた最初の人ともいわれる。
堺の豪商津田宗達らを茶会に招き、名高い茄子の形の茶入を使った記録が残る。紹鴎は四畳半よりも小さい茶室を考え、「侘敷」と呼んだとされる。ぜいたくな道具と、ひかえめな座敷を組み合わせる工夫は、のちのわび茶へつながる大切な一歩となった。
この年にも津田宗達らを招いて茶会を開いた記録がある。紹鴎のもとには堺の今井宗久や津田宗及、そして千利休らが学んだとされる。利休はのちに「術は紹鴎、道は珠光より」と語ったと伝わり、紹鴎の茶の湯は弟子たちを通じて天下に広まった。
堺で急に亡くなり、南宗寺に葬られた。晩年には朝廷から位もさずけられていた。のちに織田信長に毒を盛られたという話も生まれたが、このころ信長はまだ尾張も治めきれておらず、根拠はとぼしいとされる。紹鴎の茶の湯は、弟子の利休によってわび茶として大成された。
A. 戦国時代の堺の商人で、茶人です。京都で三条西実隆に和歌や連歌を学び、出家して紹鴎と名のりました。村田珠光の茶の湯を受け継ぎ、和歌の心を取り入れた、飾りすぎない落ち着いた「わび茶」を深め、弟子の千利休らを育てたと伝わります。生まれは大和国とする説などがあります。
A. 戦国時代の人物です。1502年(文亀2年)に生まれ、1555年(弘治元年)に亡くなりました。
A. 千利休は若いころ紹鴎のもとで茶の湯を学んだと伝わります。紹鴎が深めた、和歌の心を生かした質素で落ち着いた茶の考え方は、利休によってさらに磨かれ、わび茶として完成していきました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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