豊後(大分県)の守護大名・大友義鑑の長男として生まれた。名は義鎮で、宗麟はのちに出家してからの名である。
父が跡継ぎを弟にしようとして家臣と争いになり、家臣に襲われて亡くなった(二階崩れの変)。義鎮が家督を継いだ。
フランシスコ・ザビエルを府内(大分市)に招き、キリスト教の布教を許した。ポルトガル船も来航し、南蛮貿易で府内は栄えた。
宣教師アルメイダが府内に病院を開き、西洋の医術による治療が行われた。宗麟はこうした活動を保護した。
豊前・筑前など北九州の守護となり、幕府から九州探題にも任じられた。大友氏は最も勢いのある時期をむかえた。
出家して宗麟と名のった。毛利氏と北九州をめぐって争いを続けた。
洗礼を受けてドン・フランシスコと名のった。この年、日向に攻めこんだが耳川の戦いで島津軍に大敗し、多くの家臣を失って大友氏は衰え始めた。
有馬晴信・大村純忠とともに、伊東マンショら4人の少年をローマ教皇のもとへ送り出した(天正遣欧使節)。
島津氏に攻められて追いつめられ、大坂城の豊臣秀吉をたずねて助けを求めた。これが秀吉の九州攻めのきっかけの一つとなった。
秀吉の九州攻めで島津氏が降伏したころ、豊後の津久見で病気のため亡くなった。
フランシスコ・ザビエル大村純忠豊臣秀吉伊東マンショ島津義久島津義弘豊臣秀長龍造寺隆信
酒井忠次明智光秀龍造寺隆信上杉謙信吉川元春ルイス・フロイス小早川隆景朝倉義景
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。