何をした人?
江戸時代前期の俳人で、松尾芭蕉の最も早い時期の弟子の一人です。江戸の医者の家に生まれ、少年のころ芭蕉に入門して、服部嵐雪とともに江戸の蕉門の中心となりました。『虚栗』などの選集をまとめ、晩年はしゃれた「洒落風」の句で知られました。
| 名前 | 宝井其角 |
|---|---|
| 生没年 | 1661年(寛文元年) – 1707年(宝永4年) |
| 時代 | 江戸時代 |
| 出身地 | 江戸 |
| 別名 | 竹下侃憲 |
| 主な業績 |
|
江戸の堀江町で、近江国膳所藩の医者・竹下東順の長男として生まれた。本名は竹下侃憲という。はじめは母方の榎下という姓を名乗り、のちに自分で宝井と改めた。医者の家で育ち、漢詩や書、絵なども学んだと伝わる。
少年のころ、松尾芭蕉(当時は桃青と名乗っていた)に弟子入りした。芭蕉の最も早い時期の弟子の一人である。才能にあふれ、芭蕉からも大いに期待された。また服部嵐雪とともに、江戸の芭蕉の門人の中心となっていった。
俳諧の選集『坂東太郎』に其角の発句が三句おさめられ、俳人として名前が知られはじめた。翌年以降も、芭蕉の弟子たちの作品集などに次々と句が選ばれた。若いころから酒を好み、遊びの場にも出入りして、その経験を句に生かしたといわれる。
其角が中心となって俳諧の選集『虚栗』を出した。漢詩のような言い回しを取り入れた新しい句が集められ、当時の流行の一つとなった。芭蕉も跋文(あとがき)を寄せており、芭蕉の一門が新しい俳諧を探っていたころの大切な作品集である。
俳諧の宗匠となり、自分の弟子をとって句を指導するようになった。翌年には『続虚栗』を出し、その後も『いつを昔』『花摘』などの選集を次々にまとめた。芭蕉が旅に出ているあいだ、江戸で一門を支える役目も果たした。
芭蕉の一門の代表的な選集『猿蓑』に序文を寄せた。芭蕉は其角の句について、小さなことを大げさに言い表す力を藤原定家にたとえたと伝わる。一方で其角の句はしゃれていて難しいものも多く、芭蕉の目指した素朴な味わいとはちがう道を進んだともいわれる。
日照りが続いたとき、江戸の向島の三囲神社で「夕立や田を見めぐりの神ならば」と詠んで雨を願ったところ、翌日に雨が降ったと伝わる。この話は其角の名を広め、のちに句碑も建てられた。其角の句の力をあらわす逸話として、今も語りつがれている。
師の芭蕉が大坂で病に倒れたとき、其角はかけつけて最期を見とった。その後、芭蕉をしのぶ句を集めた『枯尾花』をまとめ、芭蕉の最期のようすを伝える文も記した。芭蕉の死後は、江戸の俳諧の中心人物として、多くの弟子を育てた。
親しい友人だった絵師の英一蝶が、幕府にとがめられて三宅島へ流された。其角は一蝶のほか、歌舞伎役者の二代目市川團十郎や商人の紀伊国屋文左衛門など、さまざまな人と交わった。上方の井原西鶴を訪ねたこともあり、交友の広さで知られた。
晩年は、わかりやすい話し言葉を生かしたしゃれた作風を広め、「洒落風」と呼ばれた。江戸で亡くなり、その作風はのちに江戸座と呼ばれる俳人たちに受けつがれた。忠臣蔵の物語では赤穂浪士と句をかわす場面が有名だが、これは後の時代に作られた話である。
A. 江戸時代前期の俳人で、松尾芭蕉の最も早い時期の弟子の一人です。江戸の医者の家に生まれ、少年のころ芭蕉に入門して、服部嵐雪とともに江戸の蕉門の中心となりました。『虚栗』などの選集をまとめ、晩年はしゃれた「洒落風」の句で知られました。
A. 江戸時代の人物です。1661年(寛文元年)に生まれ、1707年(宝永4年)に亡くなりました。
A. 宝井其角は江戸の生まれです。
A. 其角は少年のころ芭蕉に入門した最も早い時期の弟子の一人で、芭蕉から大いに期待されました。芭蕉が大坂で病に倒れたときはかけつけて最期を見とり、追悼の句集『枯尾花』をまとめました。ただし作風は、芭蕉の目指した素朴な味わいとはちがう、しゃれたものだったともいわれます。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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