江戸で、上野館林藩主徳川綱吉に仕える柳沢安忠の子として生まれた。父は甲斐武田氏の旧臣の家の出とされる。生まれたときの家は、まだ大きな力をもつ家柄ではなかった。初めの名は保明という。
父のあとを継ぎ、館林藩の綱吉の小姓組として仕えた。学問を好む綱吉のもとで、吉保も儒学をよく学んだ。綱吉とは学問を通じて深く結びつき、のちの出世の土台が築かれていった。
4代将軍家綱が亡くなり、弟の綱吉が5代将軍となった。吉保も綱吉に従って江戸城に入り、幕臣となった。将軍のそば近くで仕える役目を重ねながら、少しずつ地位を高めていった。
将軍の意向を老中に伝える側用人に任じられ、大名となった。将軍と老中の間をつなぐこの役目で、吉保は政治に大きな影響を持つようになった。綱吉の政治は、学問を重んじる文治政治として知られる。
武蔵の川越藩主となり、老中と同じ格式を与えられた。将軍が吉保の屋敷をたびたび訪れるほどの信頼を受け、領地もしだいに増えた。一方で、急な出世をねたむ声もあり、後の世の評判は分かれている。
若い儒学者荻生徂徠を家臣に迎えた。徂徠はのちに独自の学問(古文辞学)をおこす大学者となる。吉保は学者たちを手厚く支え、自らも禅や和歌に親しみ、教養人としても知られた。
綱吉から松平の名字と、名前の一字「吉」を与えられ、松平吉保と名のった。将軍からの深い信頼を示すものだった。このころ赤穂藩主浅野内匠頭の刃傷事件がおこり、翌々年の赤穂浪士の処分にも関わったとされる。
江戸駒込の屋敷に、和歌の世界を表した庭園六義園を7年かけて完成させた。紀州の和歌の浦などの名所を庭の中に写したもので、吉保の和歌への深い愛情がこめられている。庭園は今も東京に残る。
綱吉の後継ぎに甲府藩主の徳川綱豊(のちの家宣)が決まると、吉保はその後をうけて甲斐の甲府藩主となり、15万石余りを治めた。先祖ゆかりの甲斐に入ったことは、吉保にとって大きな名誉だった。
綱吉が亡くなり、家宣が6代将軍となると、吉保はすぐに職を退いて隠居した。新しい政治は新井白石らが担い、綱吉時代の生類憐みの令などは改められた。吉保は権力から静かに身を引いた。
隠居後は六義園で和歌や禅に親しむ静かな日々を送り、江戸で亡くなった。権力をほしいままにした人物として描かれることも多いが、実際には将軍の意向を忠実に実行した有能な役人だったと見直されている。
徳川綱吉近松門左衛門新井白石尾形光琳荻原重秀大石内蔵助(良雄)市川團十郎(初代)徳川家宣
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