何をした人?
安土桃山時代の武将で、豊臣秀吉の甥です。秀吉の跡継ぎとして関白の位を譲られ、近江八幡の城下町づくりでも知られます。しかし秀吉に実子の秀頼が生まれると立場が揺らぎ、1595年に謀反の疑いをかけられて高野山へ送られ、そこで生涯を閉じました。
| 名前 | 豊臣秀次 |
|---|---|
| 生没年 | 1568年(永禄11年) – 1595年(文禄4年) |
| 時代 | 安土桃山時代 |
| 出身地 | 尾張国(現在の愛知県) |
| 別名 | 三好信吉、羽柴秀次 |
| 主な業績 |
|
尾張で、豊臣秀吉の姉ともと、その夫の弥助(のちの三好吉房)の長男として生まれた。幼い名は治兵衛といった。生まれた年はこの年とするのが通説だが、もう少し早いとする説もある(諸説あり)。家はもともと農民だったと伝わる。
秀吉は北近江の浅井氏の家臣宮部継潤を味方に引き入れた。そのとき、継潤の身の安全を保証する人質として、まだ幼い治兵衛が送られ、名目上は継潤の養子となった。こうして宮部吉継と名乗ったとされる。
秀吉は四国や畿内の情勢をにらみ、名門三好氏の三好康長と結びつきを強めるため、甥を康長の養子とした。こうして三好信吉と名乗り、のちに河内で領地を持つ大名となった。養子に入った時期には諸説ある。
羽柴秀次と名を改めるころ、徳川家康・織田信雄と戦った小牧・長久手の戦いで、三河をつく別動隊の大将となった。しかし家康軍に背後から襲われて大敗し、多くの家臣を失った。秀吉は手紙で、甥としての自覚を持つよう厳しく戒めた。
紀州攻めや四国攻めで功を立て、近江に家臣の分も合わせて40万石を超える領地を与えられた。秀吉の指図で八幡山城を築き、城下町を整えた。領内では公平な裁きを行ったという話が近江八幡に今も語り継がれている。
八幡山城の城下町に13か条の掟を出した。織田信長が安土で行ったのにならい、楽市・楽座を認めて商人を呼び集め、周辺の市を八幡に集めた。琵琶湖とつながる八幡堀も利用され、近江八幡は商業の町として発展する基礎ができた。
北条氏を攻めた小田原征伐に副将格として出陣し、伊豆の山中城攻めでは大将として城をわずか半日で落とした。その後、奥州の平定にも加わった。戦いの後、尾張と伊勢北部などを与えられ、豊臣一門の大大名となった。
秀吉の弟秀長と、秀吉の跡継ぎだった幼い鶴松が相次いで亡くなった。跡継ぎを失った秀吉は秀次を養子とし、12月、関白の位を譲った。秀次は聚楽第に住んで政治を行ったが、秀吉は太閤として大きな力を持ち続けた。
秀吉が朝鮮出兵のため肥前の名護屋城に移ると、秀次は京都で国内の政治を担当した。一方で連歌や茶の湯をたしなみ、古い書物や写本を熱心に集めて学問や文化を保護した。公家の日記にもその教養の深さがうかがえる。
秀吉の側室淀殿が男子の秀頼を産んだ。実の子を得た秀吉と、跡継ぎとされていた秀次の関係は微妙なものとなった。秀吉は日本を分けて秀次と秀頼に与える案や、秀頼と秀次の娘を婚約させる案を示したとも伝わる。
6月末、秀次に謀反の疑いがかけられた。秀次は伏見に呼ばれたが秀吉に会うことも許されず、高野山に送られ、7月15日、命令によって自ら命を絶った。その後、妻や子どもたちの多くも連座して命を落とし、聚楽第も壊された。
事件の理由ははっきりせず、当時から謀反は疑わしいと見られていた。のちの軍記物で乱暴な人物として描かれ「殺生関白」と呼ばれたが、それを裏づける確かな史料は乏しい。近年は教養ある武将として見直す研究も進んでいる。
A. 安土桃山時代の武将で、豊臣秀吉の甥です。秀吉の跡継ぎとして関白の位を譲られ、近江八幡の城下町づくりでも知られます。しかし秀吉に実子の秀頼が生まれると立場が揺らぎ、1595年に謀反の疑いをかけられて高野山へ送られ、そこで生涯を閉じました。
A. 安土桃山時代の人物です。1568年(永禄11年)に生まれ、1595年(文禄4年)に亡くなりました。
A. 豊臣秀次は尾張国(現在の愛知県)の生まれです。
A. 秀次は近江の領主として八幡山城を築き、その城下に碁盤の目状の町をつくって商人を集めました。この町づくりが、のちに近江商人の拠点として栄える近江八幡のもとになりました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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