豊臣秀吉と淀殿の子として大坂城で生まれた。年をとってから生まれた子で、秀吉はたいへんかわいがった。
秀吉の甥で関白だった豊臣秀次が切腹させられ、幼い秀頼が豊臣家のただ一人の跡継ぎとなった。
秀吉が亡くなった。秀吉は五大老・五奉行に幼い秀頼を支えるよう、くり返したのんでいた。
関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した。秀頼は戦いに加わらなかったが、領地を摂津・河内・和泉の約65万石に減らされた。
家康が征夷大将軍となった年、家康の孫の千姫と結婚した。豊臣家と徳川家をつなぐ結婚だった。
このころから、父の供養のために全国の多くの寺や神社の建て直しを進めた。豊臣家の財力の大きさを示すことにもなった。
京都の二条城で家康と会った。立派に成長した秀頼の姿を見て、家康は豊臣家への警戒を強めたと伝わる。
再建した方広寺の鐘の文字が家康をのろうものだと言いがかりをつけられ(方広寺鐘銘事件)、大坂冬の陣が起きた。浪人たちを集めて戦ったが、和議を結び、大坂城の堀を埋められた。
大坂夏の陣で、真田信繁らが奮戦したが敗れ、大坂城は落ちた。秀頼は母の淀殿とともに自ら命を絶ち、豊臣家はほろんだ。妻の千姫は城から救い出された。
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教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。