何をした人?
出羽・陸奥(東北地方)の戦国大名で、仙台藩の初代藩主です。若くして家をつぎ、南東北の多くを支配しましたが、豊臣秀吉に従いました。関ヶ原の戦いでは徳川方につき、仙台城と城下町を築きました。家臣の支倉常長をヨーロッパに送ったことでも知られ、幼いころの病で右目を失ったことから「独眼竜」と呼ばれます。
| 名前 | 伊達政宗 |
|---|---|
| 生没年 | 1567年(永禄10年) – 1636年(寛永13年) |
| 時代 | 戦国〜江戸時代 |
| 出身地 | 出羽国米沢(現在の山形県米沢市) |
| 別名 | 梵天丸(幼名)、独眼竜 |
| 主な業績 |
|
出羽の米沢城(山形県)で、伊達輝宗の長男として生まれた。幼い名は梵天丸。
このころ天然痘にかかり、右目の光を失った。そのため内気な子どもになったが、師の虎哉宗乙の厳しい教育を受けてたくましく育ったと伝わる。のちに「独眼竜」と呼ばれた。
三春城主・田村清顕の娘、愛姫と結婚した。12歳だった。
17歳で伊達家の当主となった。父の輝宗は早く隠居し、若い政宗を支えた。
降伏を申し出た二本松城主・畠山義継に、父の輝宗が連れ去られた。追いかけた伊達軍との争いの中で、父は義継とともに命を落とした。政宗は深く悲しみ、二本松を激しく攻めた。
会津の蘆名氏を摺上原の戦いで破り、黒川城(のちの会津若松城)に入った。南東北の大部分を手に入れ、22歳で奥州一の大名となった。
豊臣秀吉の小田原攻めに遅れて参じた。死を覚悟した白い着物姿で秀吉の前に現れたと伝わる。命は助けられたが、会津などの領地を取り上げられた。
葛西・大崎一揆を裏であおったと疑われ、京都で秀吉に弁明した。金色の十字架を背負って現れたという話も伝わる。領地を移され、岩出山城に入った。
関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍についた。翌年から仙台城と城下町の建設を始め、のちに62万石の仙台藩の基礎を築いた。
家臣の支倉常長らを、スペインやローマ教皇のもとへ送った。メキシコとの直接の貿易をめざしたが、幕府がキリスト教を禁じたこともあり、実現しなかった。
大坂の陣に徳川方として出陣した。その後は家康・秀忠・家光の3代の将軍に仕え、領地では新田の開発や北上川の工事を進めた。料理や和歌、能にも通じた文化人でもあった。
江戸の屋敷で病のため亡くなった。三代将軍家光は深く悲しんだという。仙台の瑞鳳殿にまつられている。
A. 出羽・陸奥(東北地方)の戦国大名で、仙台藩の初代藩主です。若くして家をつぎ、南東北の多くを支配しましたが、豊臣秀吉に従いました。関ヶ原の戦いでは徳川方につき、仙台城と城下町を築きました。家臣の支倉常長をヨーロッパに送ったことでも知られ、幼いころの病で右目を失ったことから「独眼竜」と呼ばれます。
A. 戦国〜江戸時代の人物です。1567年(永禄10年)に生まれ、1636年(寛永13年)に亡くなりました。
A. 伊達政宗は出羽国米沢(現在の山形県米沢市)の生まれです。
A. 1613年に政宗が家臣の支倉常長らをスペインとローマに送った使節です。メキシコとの貿易を開くことなどが目的でしたが、日本でキリスト教の禁止が強まり、貿易は実現しませんでした。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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