3代将軍徳川家光の四男として江戸城で生まれた。父の家光から、学問にはげむよう教えられて育った。
上野(群馬県)の館林藩の藩主となった。
兄の4代将軍家綱が跡継ぎのないまま亡くなり、5代将軍となった。はじめは大老の堀田正俊とともに、引きしまった政治を行った。
武家諸法度を改め、武力よりも忠義や孝行、礼儀を重んじる政治(文治政治)を進めた。
このころから、生き物を大切にするよう命じる生類憐みの令を次々と出した。特に犬を大切にしたため「犬公方」とよばれたが、命を大切にする考えを広めた面もあるとされる。
儒学を重んじ、江戸の湯島に孔子をまつる聖堂を建てた。自ら大名たちに儒学の講義もした。
幕府の財政が苦しくなり、金の量を減らした小判を大量につくった。幕府の収入は増えたが、物の値段が上がって人々の暮らしは苦しくなった。
江戸城で赤穂藩主の浅野長矩が吉良義央に切りつけた。綱吉は浅野にその日のうちに切腹を命じ、翌年、赤穂の浪士たちが吉良を討った。
関東で大きな地震が起き、江戸も大きな被害を受けた。
富士山が大噴火(宝永噴火)し、まわりの村々に火山灰がふり積もった。
はしかにかかって亡くなった。綱吉の時代は、町人を中心とした元禄文化が花開いた時代でもあった。
徳川家綱井原西鶴関孝和松尾芭蕉近松門左衛門新井白石尾形光琳柳沢吉保
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。