日本史人生シミュレーター

佐竹義重

北条氏や伊達政宗と争い、佐竹氏の全盛期を築いた常陸の大名
時代:戦国〜江戸時代 / 1547年〜1612年(65歳ほど)
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歩んだ道

1547年

常陸の佐竹家に生まれる

常陸国(今の茨城県)の戦国大名佐竹義昭の子として生まれた。佐竹氏は平安時代から続く源氏の名門である。母は陸奥の岩城氏の出身で、義重の「重」の字は母方の祖父岩城重隆から受けたものとみられる。周りを強い大名に囲まれた土地で育った。

1562年

家督を継ぐ

父の義昭が隠居したため、家督を継いで佐竹氏の第18代当主となった。とはいえ、しばらくは父が実権を握っていた。2年後には越後の上杉謙信と協力して小田氏治を小田城から追い、その後も謙信と結びつきを強めながら、常陸の統一を目指して戦いを重ねた。

1569年

手這坂の戦い

宿敵の小田氏治と手這坂で戦って勝利し、小田城を手に入れた。義重はその後も白河結城氏や岩城氏を従え、下野の那須氏とも和を結んで勢力を広げた。戦場で7人の敵を一瞬で倒したといった勇ましい話から、のちに「鬼義重」とも呼ばれるようになった(諸説あり)。

1581年

蘆名氏と手を結ぶ

急な勢力拡大は周りの大名に警戒され、北条氏と蘆名氏の両方から攻められて苦しい立場に立った。義重は結城氏や宇都宮氏と縁組みを通じて結び、遠く畿内の羽柴秀吉とも親しくした。この年には会津の蘆名盛隆と同盟を結び、北条氏に対抗する体制を整えた。

1585年

人取橋の戦い

北条氏の大軍に押されて不利な和睦を結んだ一方、北では伊達政宗との争いが始まった。義重は蘆名氏らと連合軍を組み、人取橋で政宗の軍と戦って優位に立ったが、留守の常陸で不穏な動きがあったため兵を引いた。政宗はのちに、この戦いを生涯の大戦と語ったとされる。

1587年

次男を蘆名家へ送る

跡継ぎが相次いで亡くなった蘆名氏に、次男の義広を養子として送り込んだ。政宗の弟を蘆名家に入れようとしていた伊達氏はこれに強く反発した。翌年の郡山合戦では大軍で政宗と向き合ったが、連合軍の足並みがそろわず、勝負がつかないまま和睦した。

1589年

窮地の中で隠居する

義広が摺上原の戦いで政宗に大敗し、南の陸奥の大名たちも次々に伊達方についた。佐竹氏は南の北条氏と北の伊達氏に挟まれ、滅亡の危機に立たされた。この年、義重は長男の義宣に家督を譲って隠居したが、その後も実権は握り続けた。

1590年

秀吉に認められる

かねて親しくしていた豊臣秀吉が小田原征伐を始めると、義重は義宣とともに小田原に駆けつけた。この判断が実を結び、秀吉から常陸国54万石の支配を認められた。危機に立っていた佐竹氏は、一気に形勢を逆転させることに成功したのである。

1591年

常陸を統一する

秀吉の後押しを受けて、常陸の中で従わない勢力を次々と退けた。鹿島・行方の両郡に館を構えていた「南方三十三館」の領主たちも謀略によって滅ぼし、ついに常陸一国の統一を果たした。その後は政治を義宣にまかせ、太田城で「北城様」と呼ばれて暮らした。

1600年

関ヶ原で東軍を説く

関ヶ原の戦いでは、石田三成と親しい義宣が西軍につこうとしたのに対し、時の流れを見ていた義重は徳川家康の東軍につくよう説き、父子は対立した。戦後、佐竹氏はどちらともつかない態度をとがめられ、2年後に出羽の久保田へ領地を移された。

1612年

出羽での最期

出羽に移ってからは六郷城に住み、町づくりを進めながら、佐竹氏に反発する一揆に備えて領地の南部を見守った。この年、狩りの最中に馬から落ちたことがもとで亡くなった。愛刀家として知られ、寒い北国でも敷布団を使わずに寝たという飾らない人柄も伝わっている。

この時代に起きたこと

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