日本史人生シミュレーター

片倉景綱

伊達政宗の側近・白石城主
時代:戦国〜江戸時代 / 1557年〜1615年(58歳ほど)
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歩んだ道

1557年

誕生

出羽の米沢で、八幡神社の神職片倉景重の子として生まれた。通称は小十郎。異父姉の喜多は学問や武芸にすぐれた女性で、のちに伊達政宗の乳母となり、景綱の出世にも深く関わったとされる。

1575年

政宗の傅役となる

伊達輝宗に見こまれ、嫡男梵天丸(のちの政宗)の傅役に任じられた。政宗は幼いころの病で右目の光を失い、内気になったともいわれる。景綱が政宗の右目を取り除いたという話も伝わるが、確かな記録ではない。

1584年

政宗の家督相続

政宗が十七歳で伊達家の家督を継ぐと、景綱は側近として政治や軍事の相談にあずかった。10歳ほど年上の景綱は、気性の激しい若い主君をいさめ、支える役目を担った。主従の信頼はここから一層深まった。

1585年

人取橋の戦い

父輝宗の死後、佐竹・蘆名らの連合軍が攻め寄せ、伊達軍は人取橋で苦しい戦いをしいられた。景綱らの奮戦で政宗は危機をしのいだとされる。この戦いは、若い政宗にとって最大の試練の一つだった。

1589年

摺上原の戦い

会津の蘆名氏と磐梯山のふもとの摺上原で戦い、大勝した。政宗は黒川城(のちの会津若松城)に入り、伊達家は南奥州の大半を治める大勢力となった。景綱も軍の重要な一翼を担った。

1590年

小田原参陣を勧める

豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原の陣に加わるかどうか、伊達家中では意見が分かれた。景綱は天下の大勢を見て秀吉に従うべきだと説いたと伝わる。政宗は遅れて参陣し、会津は取り上げられたが家は守られた。

1591年

葛西大崎一揆の後

葛西・大崎一揆をめぐり政宗が一揆をあおったと疑われ、伊達家は領地を大きく移された。政宗は秀吉の前で疑いを晴らした。景綱は新しい領国の守りを任され、伊達家の立て直しを支えた。

1592年

朝鮮へ渡る

秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)で、政宗に従って朝鮮半島へ渡った。伊達勢はきらびやかな装いで京の人々を驚かせたと伝わる。遠い戦場での苦しい戦いを経て、景綱は政宗とともに帰国した。

1600年

関ヶ原の戦いのころ

関ヶ原の戦いのころ、伊達家は徳川方として上杉景勝と戦い、景綱は上杉方の白石城を攻め落とす戦いに加わった。東北での戦いは、徳川家康に対する伊達家の忠節を示すものとなった。

1602年

白石城主となる

白石城を任され、城主となった。白石は仙台藩の南の守りの要で、のちの一国一城令でも例外として城が残された。片倉家は以後、代々白石城主として仙台藩を支えることになる。

1614年

子重長に大坂出陣を託す

大坂冬の陣のころ、景綱は病のため出陣できず、子の重長が伊達軍の一員として戦った。翌年の夏の陣では重長が活躍し、名を高めたとされる。景綱は息子に家と主君への奉公を託した。

1615年

白石で死去

大坂の陣が終わって豊臣家が滅んだこの年、景綱は白石で病のため亡くなった。政宗の生涯のほとんどにわたって知恵袋として仕えた景綱は、伊達家を支えた第一の家臣として今も語り継がれている。

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