京都で、将軍足利義輝に仕える細川藤孝(のちの幽斎)の長男として生まれた。父は和歌や古典に通じた当代一流の文化人で、のちに信長・秀吉・家康に仕えて家を保つ。幼名は父と同じ熊千代であった。父の教養と処世は、忠興の生き方に大きな影響を与えた。
父とともに織田信長に仕え、紀伊の雑賀攻めで初陣を飾った。同じ年、信長に背いた松永久秀方の大和の片岡城を、父や父の盟友である明智光秀とともに攻め落とした。その働きに対し、信長から直筆の感状を与えられ、若き武将として注目された。
元服して信長の嫡男信忠から一字を受け、忠興と名乗った。同じ年、信長の命と仲立ちにより、明智光秀の娘の玉子(のちのガラシャ)と勝竜寺城で結婚した。二人は仲むつまじかったと伝わるが、この結婚はのちに忠興を大きな試練に立たせることになる。
信長が京都で盛大に行った馬揃えに、若いながら参加した。このとき信長が身につけた唐渡りの赤い錦の小袖は、忠興が京の町で探し求めて献上したものだと『信長公記』は伝える。前年に父が丹後南部を与えられており、細川家は信長のもとで勢いを増していた。
本能寺の変で信長を倒した岳父の明智光秀から味方になるよう誘われたが、父とともに髪を切って信長の喪に服し、これを断った。光秀の娘である妻の玉子は、丹後の山深い味土野に移されて人目を避けて暮らすことになった。この決断が細川家の命運を守った。
父が隠居して家督を継ぎ、羽柴秀吉に従って丹後一国を治めた。この年の小牧・長久手の戦いに加わり、翌年には秀吉から羽柴の姓を許された。玉子もこのころ丹後から大坂の屋敷に戻ることを許され、夫婦はふたたびともに暮らすようになった。
秀吉の九州攻めに従って出陣している間に、妻の玉子が大坂でひそかにキリスト教の洗礼を受け、ガラシャという名を授かった。同じ年に秀吉がバテレン追放令を出したこともあり、忠興はこれに強く反発したと伝わるが、夫婦の間には深い愛情と葛藤があったとされる。
父と同じく茶の湯を深く学び、千利休にもっとも気に入られた弟子の一人として、のちに利休七哲に数えられた。利休が秀吉の怒りを買って堺へ追われたとき、秀吉をはばかって多くの大名が近づかない中、見送りに行ったのは忠興と古田織部だけであったと伝わる。
文禄の役で朝鮮半島に渡り、慶尚道の各地で戦った。晋州城の攻撃では一度目は落とせなかったが、翌年の二度目の戦いで城を攻め落とした。その後、秀吉の甥の秀次が処罰された秀次事件では、秀次から借金をしていたため疑われたが、徳川家康の助けで返済して難を逃れた。
秀吉が亡くなると、石田三成らと対立して家康に近づいた。加藤清正・福島正則らとともに三成を襲おうとした七将襲撃事件に加わり、三成は奉行の職を退いた。家康の推薦で豊後の杵築六万石を加えられ、合わせて十八万石の大名となった。
関ヶ原の戦いでいち早く東軍につき、ほかの豊臣恩顧の大名にも影響を与えた。出陣中、大坂の屋敷にいたガラシャは石田三成方から人質になるよう求められたがこれを拒み、命を落とした。戦いの後、忠興は豊前などを与えられ、約四十万石の大名となった。
豊前に入った忠興は、九州の要となる城をめざして小倉城の大がかりな改修に取りかかり、城下町を整えた。のちの小倉藩の基礎はこうして築かれた。慶長の末には大坂の陣にも徳川方として加わったが、戦後に将軍家から松平の名字を与えると言われても辞退した。
病のため、三男の忠利に家督を譲って隠居し、出家して三斎宗立と名乗った。忠利は若いころ江戸で人質として過ごし、徳川秀忠らと親しくなっていたことが跡継ぎに選ばれる助けになった。和歌や能、絵にも通じた三斎は、茶人としても名高かった。
忠利が肥後熊本へ移されると、忠興は八代城に入って隠居の地とした。このとき従ってきた陶工によって高田焼が始められた。将軍秀忠から政治の心得を問われ、「角なる物に丸い蓋をしたようになされませ」と答えたという逸話も伝わり、晩年は人柄が丸くなったとされる。
正保二年十二月、八代城で亡くなった。臨終の際に「皆共が忠義、戦場が恋しきぞ」と語ったと伝わり、最後まで武将の心を失わなかった。戦国から江戸初期の激しい変化の中で家を守り、熊本藩細川家の礎を築いた生涯であった。
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加藤清正前田利長細川ガラシャ加藤嘉明ウィリアム・アダムス(三浦按針)池田輝政大谷吉継伊達政宗
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