日本史人生シミュレーター

大鳥圭介

箱館まで戦った幕府陸軍の指揮官で、のちの工部大学校校長
時代:江戸末〜明治時代 / 1833年〜1911年(78歳ほど)
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歩んだ道

1833年

村医者の子

播磨の赤穂郡の村で、医者の小林直輔の子として生まれ、慶太郎と名付けられた。父も学んだ岡山藩の閑谷学校に入り、五年にわたって漢学や儒学、漢方医学を学んだ。医者の家に育った少年は、のちに軍学や工学へと関心を広げていくことになる。

1852年

適塾で学ぶ

故郷で蘭方医の助手を務め、名を圭介と改めたのち、大坂に出て緒方洪庵の適塾に入り、オランダ語と西洋医学を学んだ。適塾は全国の若者が競い合って学ぶ場で、ここで身につけたオランダ語の力が、のちに西洋の兵学や技術の本を読み解く土台になった。

1854年

江戸で兵学へ

適塾の仲間とともに江戸に出て、翻訳の仕事を手伝いながら坪井塾の塾頭となった。このころから関心は医学から西洋の兵学や工学、写真術へと移っていった。勝海舟とも知り合い、新しい知識で国の守りに役立ちたいという思いを強くした。

1857年

万次郎に英語を学ぶ

江川家の塾に兵学の教授として招かれ、そのかたわら漂流してアメリカで暮らした中浜万次郎から英語を学んだ。翌年には故郷を治める尼崎藩に取り立てられて藩士となった。オランダ語に加えて英語を身につけたことで、学べる知識の幅は大きく広がった。

1860年

大鳥活字

オランダの技術書を参考に職人に作り方を教え、日本で初めて合金で金属の活字を作った。これは大鳥活字と呼ばれ、西洋の大砲の本などを翻訳して次々に出版した。築城の本は評判を呼び、長州では実際の城づくりに参考にされたという。写真や温度計、気球の試作も行った。

1867年

伝習隊を率いる

幕臣に取り立てられ、フランス式の軍制を学ぶ幕府の伝習隊の結成に加わって、歩兵の指揮官となった。翌年には幕府陸軍の最高幹部である歩兵奉行に昇進した。鳥羽・伏見の戦いの後の会議では、小栗忠順や榎本武揚とともに戦いを続けるよう強く主張した。

1868年

北への転戦

江戸城が明け渡された日、伝習隊を率いて江戸を脱け出し、宇都宮や会津などで新政府軍と戦った。土方歳三らとも合流したが、峠の戦いで大きな損害を受け、仙台へ逃れた。そこで榎本武揚の艦隊と合流し、蝦夷地へ渡って戊辰戦争の最後の戦いへ向かった。

1869年

五稜郭での降伏

箱館の政権で陸軍の責任者となり、箱館戦争では時間を稼ぐ戦い方で粘り強く戦ったが、しだいに追い詰められ、五稜郭で降伏した。東京へ送られて牢に入れられ、護送の様子を日記に残した。敗れた側の指揮官として、先の見えない日々を過ごした。

1872年

新政府で再出発

黒田清隆らの尽力で許されて牢を出ると、その知識を買われて新政府に招かれた。北海道を開く開拓使に勤め、公債の交渉や機械の視察のため欧米各国を回った。かつての敵の政府で、技術の専門家として新しい日本づくりに力を注ぐことになった。

1877年

工部大学校の校長

工部省で官営工場をまとめ、セメントやガラス、造船、紡績などの事業を進めた。この年、のちの東京大学工学部につながる工部大学校の初代校長となり、多くの技術者を育てた。日本初の工業雑誌も出し、新しい技術を広く知らせることに努めた。

1886年

学習院の院長

元老院の議官を経て、学習院の院長となり、華族女学校の校長も兼ねた。技術者としての経験に加えて、教育の分野でも重い役目を担った。幕府軍の指揮官から、明治の学校教育を支える立場へという歩みは、時代の大きな変化を映している。

1889年

清と朝鮮の公使

外交官に転じて清国駐在の公使となり、のちに朝鮮駐在の公使も兼ねた。日清戦争の直前には朝鮮に赴き、清の袁世凱らとの難しい交渉に当たった。開戦後に公使を解かれて帰国し、天皇の相談に応じる枢密顧問官となった。

1911年

最期

長年の功で男爵となったが、晩年は災害にあったり息子たちに先立たれたりする不幸も重なった。神奈川の国府津の別荘で病のため亡くなった。漢詩や和歌もよくし、戊辰戦争の記録を残し、西洋の進化論を紹介するなど、幅広い知識で生きた人だった。

この時代に起きたこと

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