石見の津和野藩で、藩に仕える医者の家に生まれた。父は藩医の西時義である。のちの文豪森鷗外の家とは親戚にあたる。幼いころから学問を好み、祖父や父から漢学の手ほどきを受けた。
藩校養老館で学んだのち、大坂や岡山にも出て学問を深めた。このころ、正統とされた朱子学から、荻生徂徠の学問に心を移したとされる。決まった考えをうのみにせず、自分で確かめる姿勢がここに見られる。
江戸に出ていたとき、ペリーの来航に強い衝撃を受けた。西洋を知る必要を感じた周は、藩の許しを得ずに藩を離れ、オランダ語や英語を学び始めた。身分を捨ててでも新しい学問に進もうとする大きな決断だった。
幕府が西洋の書物を研究するために設けた蕃書調所で、教授の手伝いとして働き始めた。同じ所には津田真道らもおり、ともに西洋の学問を学んだ。幕府の役人として、西洋の知識を国に役立てる道が開けた。
幕府の命で津田真道らとともにオランダへ渡った。ライデン大学のフィッセリング教授のもとで、法学・経済学・統計学などを学び、哲学にもふれた。日本人が西洋の社会の学問を体系的に学んだ最初の例の一つとされる。
オランダから帰国し、蕃書調所を引き継いだ開成所の教授となった。留学で学んだ国際法の講義をまとめ、のちに本にした。西洋の学問を日本語で伝えるため、多くの新しい言葉を考える仕事が始まった。
京で将軍徳川慶喜のそばに仕え、フランス語を教えたり、西洋の政治の仕組みを説明したりした。大政奉還のころ、議会を取り入れた新しい政治の形を示す『議題草案』を書いたとされる。
幕府がなくなった後、徳川家が移った静岡藩で、沼津兵学校の頭取となった。兵学だけでなく、数学や語学なども教える新しい学校で、多くのすぐれた人材を育てた。徳川家の家臣として新しい教育に力を注いだ。
明治政府に招かれて兵部省(のちの陸軍省)に入り、軍の制度づくりに関わった。私塾の育英舎を開いて「百学連環」と題する講義を行い、西洋の学問の全体像を日本の人々に示した。
森有礼の呼びかけで、福沢諭吉・中村正直・加藤弘之らとともに明六社をつくった。『明六雑誌』に論文を書き、新しい考えを人々に広めた。西洋の考え方を日本に根づかせようとする啓蒙の活動の中心の一人だった。
『百一新論』を出し、この本などで西洋のphilosophyを「哲学」と訳した。ほかにも「科学」「技術」「芸術」「理性」など、今も使われる多くの言葉を考えたり広めたりしたとされる。日本語で学問を語る土台をつくった。
山県有朋のもとで、軍人の心得を説いた軍人訓誡や、天皇が軍人に与えた軍人勅諭の草案づくりに関わった。啓蒙思想家でありながら、明治国家の軍の精神を形づくる仕事にもたずさわった。
帝国議会が開かれると、貴族院議員に選ばれた。晩年は病に苦しみ、大磯で静かに暮らした。1897年に亡くなる直前、男爵の位を授けられた。学問の言葉の世界に大きな足跡を残した生涯だった。
大磯で亡くなった。西洋の学問を日本に伝えるために生み出した多くの言葉は、日本だけでなく中国などでも使われるようになった。故郷の津和野には今も生家が残り、その業績が伝えられている。
ウィリアム・S・クラーク狩野芳崖高橋由一副島種臣由利公正大久保利通河鍋暁斎中村正直
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。