江戸の麻布で、幕府の下級役人である同心中村武兵衛の長男として生まれた。父は伊豆の宇佐美の農家の出で、中村家の養子だった。幼いころから四書を習い、書道も学んだ。のちに敬宇と号し、中村敬宇の名でも知られる。
築地の井部香山の塾で漢学を学び、翌年には蘭方医の桂川甫周からオランダの学問の手ほどきを受けた。儒学を中心に学びながらも、早くから西洋の学問に目を向けていたことが、のちに英学の道へ進むきっかけとなった。
幕府の最高学府である昌平坂学問所の寄宿寮に入り、儒学者佐藤一斎に儒学を学んだ。また箕作奎吾から英語を習った。儒学の秀才として頭角をあらわしながら、ひそかに英語の勉強も続け、西洋への関心をいっそう深めていった。
昌平坂学問所の教授に任じられ、翌年には甲府の学問所徽典館の学頭も務めた。その後、幕府の御用儒者にまで進み、儒学者として最高の地位についた。それでも西洋の学問への思いは強く、海外に出て学ぶ機会を求め続けた。
幕府がイギリスに送る留学生の監督として、外山正一ら12人の若者を連れて横浜を出発し、翌年の元日にロンドンに着いた。イギリスでは国の豊かさが人々の勤勉さや独立心に支えられていることに強い印象を受けた。
幕府が倒れたため帰国し、徳川家とともに静岡に移った。静岡学問所の教授となり、同じく教えていたアメリカ人宣教師クラークと生涯の友となった。イギリスで友人から贈られたスマイルズの『自助論』の翻訳に取り組んだ。
スマイルズの『自助論』を『西国立志編』として出版した。「天は自ら助くる者を助く」の訳で知られ、努力して身を立てた西洋の人々の話は明治の若者を励まし、100万部以上売れて福沢諭吉の『学問のすすめ』と並ぶベストセラーとなった。
イギリスの思想家ミルの『自由論』を『自由之理』として翻訳し、個人の尊さや自由の大切さを紹介した。この本は自由民権運動にも影響を与えた。同じ年、新政府に招かれて大蔵省の翻訳局長となった。
大蔵省をやめ、小石川の自宅に英学塾の同人社を開いた。同人社は福沢の慶応義塾などと並ぶ有名な塾となった。また福沢諭吉や森有礼、西周らと明六社をつくり、『明六雑誌』に文章を書いて西洋の新しい考えを広めた。
横浜で宣教師コクランの説教を聞いたことをきっかけに彼を同人社に迎え、この年の12月、養子とともにコクランから洗礼を受けた。カナダ・メソジスト教会の日本人最初の信徒となり、洗礼名はジョンだった。
新しく開かれた東京女子師範学校の摂理(校長)となり、女性の教師を育てる教育に力を尽くした。また目や耳の不自由な人のための学校をつくる楽善会の設立にも加わった。のちには東京大学の教授も務めた。
帝国議会の開設にあたり、天皇が選ぶ勅選の貴族院議員に任じられた。同じころ女子高等師範学校の校長も務め、教育の分野で重んじられた。明治の六大教育家の一人に数えられ、森有礼や新島襄とともにキリスト教徒の教育者として知られる。
この年の6月、東京で亡くなった。儒学と西洋の学問の両方に通じ、『西国立志編』を通じて「自分で努力して道を開く」という考えを広めた。その言葉は明治の多くの若者の心の支えとなり、今も名訳として語り継がれている。
西周由利公正大久保利通河鍋暁斎寺島宗則木戸孝允大鳥圭介江藤新平
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。