日本史人生シミュレーター

由利公正

五箇条の御誓文の原案を書いた福井藩出身の財政家
時代:江戸末〜明治時代 / 1829年〜1909年(80歳ほど)
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歩んだ道

1829年

福井藩士の家に生まれる

福井藩士三岡義知の長男として福井城下に生まれ、三岡八郎と名乗った。母は家の切り盛りが上手な賢い人で、八郎は幼いころから母を助けて家の修理や畑仕事、父の馬の世話を手伝った。その一方で武道にも励み、実際の暮らしに根ざした感覚を身につけた。

1853年

家督を継ぐ

ペリー来航の年に家督を継ぎ、福井藩士として仕えた。藩主松平春嶽のもとで、橋本左内らとともに国の行く末を案じて奔走した。藩の財政は苦しく、武士も町人も困っていたことから、八郎はどうすれば藩と民が豊かになれるかを考えるようになった。

1858年

横井小楠に学ぶ

福井に招かれた熊本の思想家横井小楠の、産業を盛んにする政策に強く心を動かされ、小楠から財政の学問を学んだ。二人は西国各地へ出向き、下関で品物の取り引きを調べ、長崎では藩の蔵屋敷を建ててオランダ商館と生糸を売る約束を結んだ。

1859年

藩の財政を立て直す

藩の紙幣を発行して農民や職人にお金を貸し、できた生糸などの産物を藩が買い集めて売るしくみを作った。「民が豊かになれば国も豊かになる」という考えに基づく政策は大きな成果を上げ、苦しかった藩の財政は黒字に転じた。この手腕が八郎の名を高めた。

1863年

謹慎の日々

春嶽が幕府の政事総裁職に就くとその側近を務めたが、藩の方針をめぐる対立に敗れ、福井で謹慎を命じられた。謹慎中には、土に埋めて熱を逃がさない竈を考え出した。火力が強く燃料も少なくてすむため「三岡へっつい」と呼ばれ、昭和の初めごろまで使われたという。

1867年

坂本龍馬との語らい

謹慎中の八郎を坂本龍馬が訪ね、宿で朝から夜中まで新しい政府の経済政策について語り合った。龍馬は「天下の人物といえば西郷隆盛と三岡八郎」と評したという。その直後、龍馬は京都で命を落とした。この縁が新政府に招かれるきっかけとなった。

1868年

五箇条の御誓文の原案

明治新政府に参与として加わり、新しい政治の方針を示す文書の原案「議事之体大意」を書いた。これに土佐藩の福岡孝弟らが手を加え、五箇条の御誓文となった。「広く会議を興し」で始まる一文には、多くの人の意見で政治を進めるという考えが込められている。

1868年

太政官札の発行

新政府の財政を任され、戦費や政府の費用をまかなうため、全国で通用する政府の紙幣太政官札を発行した。商人からお金を集め、商業を管理する役所も設けて積極的な政策を進めた。しかし紙幣の信用が低く流通しにくかったため批判が高まり、翌年辞職した。

1871年

東京府知事

東京府知事に就き、名を由利公正と改めていた。翌年、銀座一帯が焼ける大火が起こると、燃えにくい町にするため、銀座にれんが造りの建物を数多く建て、大通りを広げる計画を進めた。これが文明開化の象徴となる銀座煉瓦街の始まりとなった。

1872年

欧米を見る

岩倉使節団に加わってアメリカとヨーロッパへ渡り、各国の地方自治や議会のしくみを研究した。人々の意見を政治に生かす仕組みを実際に見たことは、御誓文の原案を書いた公正にとって大きな学びとなった。帰国後の活動にもその経験が生かされた。

1874年

民撰議院の建白

板垣退助や江藤新平らとともに、国民が選んだ議員による議会を開くよう求める民撰議院設立建白書を政府に出した。これは自由民権運動の出発点となった。御誓文で示した「広く会議を興す」という理想を、実際の議会として形にしようとする動きだった。

1890年

貴族院議員として

元老院の議官を経て子爵となり、帝国議会が開かれると貴族院の議員となった。その後、京都で生命保険会社の初代社長も務め、実業の世界にも足跡を残した。藩の財政から国の財政、そして民間の事業まで、生涯お金の流れと人々の暮らしを考え続けた。

1909年

最期

東京高輪の自宅で病のため亡くなった。「万機公論に決すべし」という御誓文の精神と、民を豊かにして国を豊かにするという財政の考えは、近代日本の出発点に深く刻まれた。名前の読みは長く議論されたが、本人の署名から「きみまさ」とされている。

この時代に起きたこと

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