日本史人生シミュレーター

副島種臣

外務卿としてマリア・ルス号事件などを担った政治家・書家
時代:江戸末〜明治時代 / 1828年〜1905年(77歳ほど)
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歩んだ道

1828年

佐賀藩の学者の家に生まれる

肥前国佐賀の城下で、藩校弘道館の教諭枝吉南濠の次男として生まれた。父は国学に通じ、天皇を中心とする考えを説いた。兄の枝吉神陽ものちに弘道館の教授となる学者で、種臣は父と兄から強い影響を受けて育った。

1850年

義祭同盟を結ぶ

兄の神陽が、南北朝時代に天皇に尽くした楠木正成をまつる義祭同盟を結成すると、種臣も兄とともに中心となった。この集まりには江藤新平や大木喬任、島義勇らの若者も加わり、のちに明治維新で活躍する佐賀藩の人材が育っていった。

1852年

京都に学ぶ

天皇や日本の古典を研究する学問のため京都に留学し、多くの国学者と交わって議論を重ねた。翌年の黒船来航を京都で知った。のちに再び京都へ行き、朝廷に佐賀藩の兵を京都へ送るよう働きかけたが、藩主に退けられて謹慎を命じられた。

1859年

副島家を継ぐ

父が亡くなったこの年、佐賀藩士副島利忠の養子となって副島の姓を名のり、妻の律子と結婚した。謹慎が解かれると弘道館の教諭となり、大隈重信らを教えた。3年後には兄の神陽がコレラで亡くなり、その門弟たちから慕われる存在となった。

1867年

フルベッキに英学を学ぶ

長崎で、宣教師フルベッキから大隈重信とともに英語やアメリカの政治制度を学び、佐賀藩の英学塾致遠館で和漢の学問を教えた。また京都へ上って幕府の役人に大政奉還を説いたが聞き入れられず、再び謹慎を命じられた。

1868年

政体書を起草する

明治新政府の参与となり、制度事務局の判事として福岡孝弟とともに新しい政府の仕組みを定めた政体書を書いた。アメリカの制度や福沢諭吉の『西洋事情』なども参考にし、権力を分ける考えを取り入れた。翌年には最初の参議の一人となった。

1871年

外務卿となる

岩倉使節団が欧米へ出発するのにあたり、その後を受けて外務卿となった。樺太をめぐるロシアとの境界問題では、樺太全島を買い取る案を唱えたが実現しなかった。のちに樺太を手放すことになったことを、生涯悔やんだといわれる。

1872年

マリア・ルス号事件

横浜に入ったペルーの船マリア・ルス号から清国人が逃げ出し、船内で奴隷のように扱われていることがわかった。副島は人道の立場から裁判を行わせ、清国人229人を解放して清国に引き渡した。この判断はのちに国際的な仲裁でも正当と認められた。

1873年

同治帝に会い、政府を去る

特命全権大使として清国へ渡り、日清修好条規の批准書を交換し、北京で同治帝に単独で会うことを認められた。帰国後、朝鮮への使節派遣をめぐる明治六年の政変で、西郷隆盛や板垣退助らとともに政府を去った。

1874年

民撰議院設立建白書

自宅に板垣退助、後藤象二郎、江藤新平らが集まって愛国公党を結成し、国民が選ぶ議会を開くよう求める民撰議院設立建白書を政府に出した。佐賀の乱のときには、江藤とともに佐賀へ帰るよう誘われたが、板垣に説得されて東京にとどまった。

1876年

清国を旅する

横浜から上海へ渡り、約2年にわたって清国各地を旅した。蘇州や杭州の名所を訪ね、天津では李鴻章と会い、清国に仕えるよう勧められたが断った。各地の文人と漢詩を交わし、のちに2000首を超える漢詩を残す詩人としての力を磨いた。

1879年

明治天皇の侍講となる

宮内省の一等侍講となり、明治天皇に儒学の経書を講義した。黒田清隆が辞めさせようとする動きもあったが、天皇からの手紙を受けて続け、侍講の職がなくなるまで講義を続けた。天皇からの信頼は厚かった。

1892年

内務大臣となる

枢密院の副議長から松方正義内閣の内務大臣に移ったが、政府内での対立から3か月足らずでやめた。前の年には東邦協会の会頭となり、アジアの人々との交流に力を入れた。清の思想家梁啓超も日本で彼を訪ねている。

1905年

東京で死去

日露戦争のさなか、東京で病気のため亡くなった。蒼海の号で知られる書家でもあり、自由で力強い書は近代の書の歴史に大きな足跡を残した。板垣退助は「副島こそ太政大臣になるべき人だ」とその人物をたたえた。

この時代に起きたこと

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