日本史人生シミュレーター

堀田正睦

開国を進め、条約の勅許を求めて京都へ向かった老中首座
時代:江戸時代末(幕末) / 1810年〜1864年(54歳ほど)
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歩んだ道

1810年

小鳥の好きな少年

佐倉藩主堀田正時の次男として、江戸の藩邸で生まれた。初めの名は正篤である。翌年に父が亡くなり、のちに兄の跡を継いだ藩主の養子となった。少年のころは丈夫な体で、小鳥が大好きで餌をやるのが楽しみだった。屋敷では母や姉とのびのび暮らしたという。

1825年

佐倉藩主となる

藩の中では、力をもつ老臣が別の人物を藩主に立てようとしたが、下級武士たちが反対したこともあり、正篤が佐倉藩主の地位を継いだ。藩主となった正篤は、自分を支持した家臣を取り立てながら、少しずつ自らの力を固めていった。苦労の多い出発であった。

1833年

藩の改革を指揮する

藩の政治を握っていた老臣が亡くなり、正篤は藩主として独り立ちして改革を進めた。西洋の学問である蘭学を勧めたため「蘭癖」と呼ばれるほどであった。こうした取り組みにより、佐倉は学問のさかんな土地として多くの人材を生み出す土台を築いた。

1837年

老中となる

大坂城代に任じられたのち、まもなく江戸城西の丸の老中となった。それまでにも奏者番や寺社奉行を務めて、幕府の役人としての経験を積んでいた。藩主として改革を進めながら、幕府の政治の中心にも加わり、その手腕が注目されるようになっていった。

1841年

天保の改革のもとで働く

本丸の老中となり、老中首座水野忠邦が進める天保の改革にかかわった。しかし正篤は、民衆を強く締めつける忠邦のやり方には批判的で、改革は失敗に終わると早くから見抜いていたという。幕府の政治のあり方について、自分なりの考えを深めていった時期であった。

1843年

老中を辞め、順天堂を招く

改革の失敗を見こして、病気を理由に老中を辞めた。忠邦が退けられたのはその直後で、正篤の早い判断は失脚を免れる結果となった。佐倉に戻ると改革に力を注ぎ、蘭方医の佐藤泰然を招いて医学の塾である順天堂を開かせた。順天堂は今も大学として続いている。

1855年

老中首座に返り咲く

江戸を大地震が襲い、正篤も屋敷でけがをした。その一週間後、老中首座の阿部正弘の推薦で再び老中となり、首座の地位を譲られて外国との交渉も担当した。外国と通商すべきだと考える開国派であったため、攘夷を唱える徳川斉昭はこれに反対したという。

1857年

ハリスと向き合う

前年、将軍家定に嫁いだ篤姫の名をはばかって、名を正篤から正睦に改めていた。この年、アメリカ総領事ハリスの将軍との会見を実現させ、通商条約の交渉を進めた。外国との貿易は避けられないと考えた正睦は、新しい時代に向けて国を開く道を選ぼうとしていた。

1858年

勅許を得られず退けられる

日米修好通商条約を結ぶため京都へ行き、孝明天皇の許しを得ようとした。しかし反対する公家たちや攘夷を望む天皇の考えにより許しは得られず、何も得られないまま江戸へ戻った。その間に大老となった井伊直弼により、正睦は老中を辞めさせられた。

1859年

家督を譲って隠居する

家督を四男に譲って隠居し、見山と名のった。この隠居は、将軍の跡継ぎ問題で直弼と対立した人々への処分に連なるものだったとされる。ただし安政の大獄では、ほかの大名が厳しく罰せられる中で、正睦は重い処分を受けなかった。

1862年

佐倉で謹慎を命じられる

井伊直弼が桜田門外で倒れたのち、朝廷と幕府の双方からの命令で、正睦は佐倉城で謹慎するよう命じられた。これは直弼による安政の大獄への報復という意味をもつ処分であった。開国を進めた正睦は、政治の激しい揺れの中で再び表舞台から遠ざけられた。

1864年

佐倉城で亡くなる

謹慎の身のまま、佐倉城の三の丸にある御殿で亡くなった。謹慎は死後まもなく解かれた。開国という難しい判断に向き合い、蘭学を重んじて佐倉を学問の町に育てた正睦は、時代の転換点で重い責任を背負った政治家であった。墓は佐倉の甚大寺にある。

この時代に起きたこと

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