摂津国の尼崎に、下川という武家の子として生まれた。祖父は加藤清正の家臣であったが、父は尼崎藩士の身分を失って浪人となった。家計は苦しく、八人の子どものうち長男以外は、出家したり養子に出たりして家を離れなければならなかった。契沖は三番目の子であった。
幼くして家を離れ、摂津国大今里村の妙法寺に入り、快定という僧のもとで学び始めた。家の事情からの出家であったが、ここで仏教の経典や漢文に触れたことが、のちの学問の土台となった。寺での学びは、言葉と書物に対する生涯の関心を育てていった。
高野山に登り、東宝院の快賢に師事して真言宗の修行を積んだ。灌頂という儀式を受けて、阿闍梨という高い位を得たと伝わる。厳しい修行を重ねたことで、僧としての確かな基礎を身につけた。この年ごろとされるが、正確な時期には諸説ある。
大坂の西高津にある曼陀羅院の住職となった。このころ歌人で古典学者の下河辺長流と親しく交わり、学問の上で多くの示唆を受けた。長流は和歌と古典を深く研究しており、この友情がのちに契沖を『万葉集』の研究へと導く大切なきっかけとなった。時期には諸説ある。
住職の俗務を嫌って畿内を旅し、大和の長谷寺や室生寺で命を捨てるほどの激しい修行をしたと伝わる。その後、和泉の伏屋重賢らのもとに身を寄せ、仏典や漢籍、日本の古典を数多く読み、梵字の研究にも取り組んだ。このころとされるが時期には諸説ある。
延命寺の覚彦から、真言の教えを伝える灌頂をあらためて受けた。各地での修行と読書の歳月を経て、僧としての道をさらに深めた。仏教の深い学識と、古典を幅広く読んだ経験が結びついたことが、のちの独自の古典研究を生む力となった。
幼いころに学んだ妙法寺の住職となった。古典の研究に本格的に打ち込むようになるのは、この時からである。『古今和歌集』や『伊勢物語』、『源氏物語』、『百人一首』などを次々に研究し、多くの注釈書を著して、学者としての名を高めていった。
水戸藩主の徳川光圀は、『万葉集』の注釈を下河辺長流に頼んでいたが、長流が病で果たせなくなったため、友人の契沖がこれを引き継いだ。こうして書かれた『万葉代匠記』の最初の原稿は、このころまとまったとされる。書名は、長流に代わって匠の仕事をするという意味である。
『万葉代匠記』の改訂版を完成させた。古い文献に根拠を求めて一つひとつ確かめる方法で『万葉集』を読み解き、言葉の使い方に規則があることを見いだした。同じ年に母が妙法寺で亡くなったのを機に、大坂の東高津に円珠庵を建てて移り住んだ。
『万葉集』を正しく読もうとする中で、当時広く使われていた仮名の書き方の矛盾に気づき、『日本書紀』や『古事記』、『源氏物語』などの古典から正しい例を集めた『和字正濫鈔』を出版した。この書き方は契沖仮名遣とよばれ、のちの歴史的仮名遣の成立に大きな影響を与えた。
大坂の円珠庵で亡くなった。最後の一日まで弟子に教え続けていたという。古い文献に根拠を求める実証的な方法は、のちの賀茂真淵や本居宣長らによる国学の発展に道を開いた。墓は円珠庵にあり、明治時代になって位を贈られ、その功績がたたえられた。
伊藤仁斎徳川光圀貝原益軒渋川春海徳川家綱井原西鶴関孝和松尾芭蕉
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。