土佐藩に仕える儒学者の谷景井の四男として、土佐国の窪川に生まれた。三人の兄が幼くして相次いで亡くなったため、跡取りとなった。伯父に育てられた幼いころは落ち着きのない子どもだったが、成長すると勉強熱心になり、藩からも注目されるようになった。
江戸に出て、儒学者の安井息軒や安積艮斎、朱子学の塩谷宕陰、山鹿流の軍学を教える若山勿堂らに学んだ。数年の遊学ののち土佐に帰り、藩校の致道館で歴史を教える助教となった。学問と軍学の両方を身につけたことが、のちの軍人としての歩みの土台となった。
江戸からの帰り道に武市半平太と知り合い、尊王攘夷の考えに傾いた。藩の政治を率いていた吉田東洋とは外国への方針をめぐって議論し、反発しながらもその度量に感服したという。東洋が命を奪われたのち、武市とともに藩主の側近に取り立てられ、京都で諸藩の志士と交わった。
武市半平太が力を失って捕らえられると、同じ志を持つ仲間とみなされた干城も役職を下げられ、しばらくの間、家にこもる生活を送った。翌年、藩校の助教に戻ったが、東洋の路線を継いだ後藤象二郎の富国強兵策を批判するなど、攘夷の考えはなかなか変わらなかった。
長崎で後藤象二郎や坂本龍馬と交わり、攘夷はできないと説かれた。さらに上海で西洋の軍事力を目の当たりにして考えを改め、開国と討幕を唱えるようになった。そして京都の小松帯刀の屋敷で、板垣退助らとともに薩摩藩の西郷隆盛らと会い、武力による討幕を目指す密約を結んだ。
鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争が始まると、板垣退助とともに土佐藩の兵を率いて出陣した。甲州勝沼の戦いで新選組を前身とする部隊を破り、北関東での戦いを経て、会津の城を囲む戦いにも加わった。土佐へ凱旋すると、戦功によって禄を加増され、藩の重い役職に任じられた。
廃藩置県ののち新政府に仕え、陸軍少将を経て、九州を守る熊本鎮台の司令長官となった。部隊にフランス式の訓練を施して軍の近代化に取り組んだ。その後、台湾への出兵に加わったが、政府の方針に不満を抱いて一時土佐にこもり、のちに再び熊本鎮台の司令長官に任じられた。
西南戦争では、西郷隆盛が率いる薩摩軍の攻撃から熊本城を五十日以上にわたって守り抜いた。戦いの直前に城から火が出て天守などを失い、食料も乏しくなる苦しい籠城だった。自らも銃で撃たれて重い傷を負ったが、援軍が到着して包囲は解かれ、政府軍の勝利に大きく貢献した。
西南戦争の功で陸軍中将に昇進し、陸軍士官学校長などを務めた。しかし台湾出兵で亡くなった将兵の遺体が粗末に扱われたのを政府と陸軍の首脳が放置していたと知り、抗議して辞任した。この年には政府高官への払い下げ問題にも反対し、仲間の軍人とともに国会の開設を求める建白書を出した。
伊藤博文から華族の教育の改革を頼まれ、学習院の院長となった。華族の子弟が皇室を守る存在となるよう教育を進め、将来の議会政治で公平に働ける人材を育てようとした。こうした功績が認められ、この年に定められた制度によって子爵の位を与えられた。
内閣制度が始まると、第一次伊藤内閣の初代農商務大臣となり、政治家の道を歩み始めた。翌年からはヨーロッパを一年以上かけて旅し、各国の実情を見て学んだ。西洋の文明を取り入れすぎて借金で国が弱ることを心配し、日本の欧化主義を批判する考えを強めていった。
帰国すると、外国人の裁判官を任用する条約改正の案に反対し、言論の自由も訴える意見書を内閣に出した。閣僚でありながら内閣を批判したため伊藤博文や井上馨と激しく対立し、受け入れられないと見ると大臣を辞めた。やがて井上も辞任し、この改正案は阻止された。
貴族院議員となり、政党からも政府からも距離を置いて、国民の利益になるかどうかで政策の是非を判断する立場を貫いた。土佐出身の重鎮として重んじられ、税の引き上げに反対するなど、独自の政治活動を続けた。自分の土地を耕す農民を守るべきだという考えを持っていた。
晩年まで政治活動を続け、足尾鉱毒事件では現地を調べて被害者の救済に奔走した。日英同盟にも反対するなど、かたくなな姿勢から同志が離れていくこともあった。この年に亡くなり、墓は妻や父、養子とともに、ふるさとの窪川に近い山に設けられた。
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榎本武揚五代友厚井上馨板垣退助三条実美大隈重信山県有朋モース
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。