土佐藩の上士の家に生まれた。幼くして父を亡くし、義理の叔父にあたる吉田東洋のもとで育てられ、学問を学んだ。東洋は藩政改革を進めた実力者で、象二郎はその影響を強く受けた。
このころ東洋の推薦で藩の役につき、少林塾とよばれる東洋の私塾で学んだ。同じ塾には板垣退助や岩崎弥太郎らがいたとされる。若い仲間たちとの交わりは、のちの明治の政治や実業の世界にもつながった。
東洋が土佐勤王党の者たちによって命を奪われ、象二郎も役を退いた。藩の政治は尊王攘夷派が握るようになった。恩人を失ったこの出来事は、象二郎のその後の行動に大きな影響を与えた。
前藩主山内容堂が勤王党の取りしまりに乗り出すと、象二郎は大監察に起用され、武市半平太らの取り調べにあたった。藩の主導権を取り戻した象二郎は、やがて容堂の信頼を得て藩政の中心に立った。
藩の産業や貿易を進める開成館をつくり、長崎や上海にも出かけて船や武器の買い入れにあたった。長崎で外国の商人と交わる中で、世界の動きを知り、日本の進むべき道を考えるようになった。
長崎で坂本龍馬と会い、かつての対立をこえて手を結んだ。龍馬の考えをもとに、将軍が政権を朝廷に返す大政奉還の案を容堂に説き、土佐藩の建白として幕府に出した。将軍徳川慶喜はこれを受け入れた。
明治新政府の参与となり、大阪府知事などをつとめた。この年、京で英国公使パークスが襲われたとき、中井弘とともにその身を守り、のちに英国から剣を贈られたと伝わる。外国との交渉にも力を発揮した。
朝鮮への使節派遣をめぐる争い(征韓論)で、西郷隆盛・板垣退助らとともに政府を去った。政府を握った大久保利通らとの対立はその後も続き、象二郎は政府の外から政治にかかわる道を選んだ。
板垣退助らとともに、国民が選ぶ議会を開くよう求める民撰議院設立建白書を政府に出した。これは自由民権運動の始まりとされる。一方で象二郎は事業にも手を出したが、炭鉱の経営などではうまくいかなかった。
国会開設を前に、分かれていた民権派の人々をまとめようとする大同団結運動を呼びかけた。各地を回って演説し、多くの人を集めた。しかし1889年には自ら政府に入り、運動の仲間たちを驚かせた。
黒田清隆の内閣に逓信大臣として加わり、郵便や電信、交通をあつかった。続く山県有朋や松方正義の内閣でも大臣を続けた。在野の運動から政府の大臣へと立場を変えたことには、批判の声もあった。
この年に発足した第2次伊藤博文内閣で農商務大臣となった。しかし取引所をめぐる疑惑がもち上がり、1894年に職を退いた。華やかな活躍と失敗がまじりあう、波乱の多い政治人生だった。
病のため亡くなった。土佐藩の上士として出発し、大政奉還の建白から明治の議会政治の始まりまで、時代の大きな曲がり角にいくども立ち会った。豪快な人柄で知られ、龍馬や板垣との関わりで今も語られる。
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三条実美大隈重信山県有朋モース渋沢栄一黒田清隆伊藤博文田中正造
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。