日本史人生シミュレーター

三条実美

尊王攘夷派の公家から明治政府の太政大臣となり新政府の頂点に立った
時代:江戸末〜明治時代 / 1837年〜1891年(54歳ほど)
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歩んだ道

1837年

公家の家に生まれる

京都の公家三条実万の四男として生まれた。幼名は福麿という。四男のため、はじめは分家に養子に出される予定であった。幼いころから賢いことで知られ、教育係の儒学者富田織部から天皇を敬う強い思いを教えこまれた。この教えが、のちの生き方を大きく決めた。

1854年

三条家の跡継ぎとなる

跡継ぎだった兄が若くして亡くなった。本来は兄の子が継ぐはずだったが、甥がまだ幼く、富田織部が強く推したことから、福麿が三条家の跡継ぎに決まった。同じ年に元服して実美と名のった。少年時代、戦遊びで日の丸を旗印にし、国の印だと語ったという話が伝わる。

1858年

父が罰を受け家を継ぐ

父の実万は、攘夷を進めるため幕府を批判する天皇の命令が出されるのに力を尽くした。そのため安政の大獄で幕府から責められ、父は隠居を命じられ、富田織部ら家の侍も多く捕らえられた。この苦しい状況の中で、実美が正式に三条家を継いだ。幕府への強い反感が胸に刻まれた。

1862年

朝廷の中心に近づく

島津久光が京都に来て朝廷の動きが活発になると、国の大事を扱う役に任じられ、朝廷の中心に近づいた。はじめは朝廷と幕府の協力を考えていたが、攘夷に進まない幕府に不満をつのらせ、長州藩や土佐の武市半平太ら尊王攘夷の志士と交わりを深めていった。

1863年

朝廷を動かす力を持つ

尊王攘夷派の公家の中心として大きな力を持ち、関白さえ逆らえないといわれるほどであった。将軍徳川家茂を京都に迎え、攘夷を約束させるよう強く迫った。この年、同じ尊攘派の公家で友人の姉小路公知が御所の近くで襲われて亡くなり、実美は深い衝撃を受けた。

1863年

京都を追われる

天皇が自ら攘夷の先頭に立つ計画が進められたが、八月十八日の政変で薩摩藩と会津藩が御所の門を固め、尊攘派の公家は朝廷から締め出された。実美ら七人の公家は京都を離れて長州へ逃れ、これは七卿落ちと呼ばれる。慣れない徒歩の旅で、実美の足からは血が出たという。

1864年

長州で客として暮らす

長州では高杉晋作らと話し合いを重ね、山口近くの湯田に移って、井上聞多の実家に建てられた離れで暮らした。しかし長州藩は禁門の変に敗れ、幕府の長州征伐や外国艦隊の攻撃も受けて苦しい立場に追いこまれた。実美らは長州と運命をともにする決意を固めた。

1865年

太宰府に移る

五人となった公家たちは九州に渡り、太宰府に移された。身柄は福岡藩が預かり、薩摩藩などが費用を出した。翌年、幕府は五人を大坂に移そうとしたが、実美らは命をかけても動かないと決め、薩摩藩なども強く反対したため、幕府は手を出せなかった。

1867年

許されて京都に戻る

徳川慶喜が政権を朝廷に返すと、五人の罪は許されて元の位に戻された。その翌日には王政復古の大号令が出され、新しい政府が生まれた。知らせを受けた実美は九州を発って京都に戻り、新政府の重い役につくことになった。長い追放の日々がようやく終わった。

1869年

右大臣となる

戊辰戦争では関東に出向き、江戸の旧幕府側の勢力を討つ動きを支えた。新政府では右大臣となり、東京と名を改めた江戸で東日本の政治を担った。東京を失わなければ天下を失うことはないと語り、東日本の重みを強く意識していたという。

1871年

太政大臣となる

右大臣として、東京にいた藩知事たちの前で廃藩置県を伝える言葉を読み上げた。同じ年に太政大臣となり、政府の頂点に立った。岩倉使節団が欧米に旅立つと、日本に残った政府の長として、さまざまな難しい問題に取り組んだ。役割は調整役としての面が大きかった。

1873年

政府の分裂に倒れる

西郷隆盛を朝鮮へ使者として送るかをめぐり、政府の中で激しい対立が起こった。実美は西郷が殺されることを心配して反対したが、強い求めを受けて板ばさみとなった。心も体も疲れ果てた実美は倒れて胸の痛みを訴え、この明治六年政変で政府は大きく分かれた。

1885年

内大臣に移る

太政官の制度が廃止されて内閣制度が始まると、初代総理大臣には伊藤博文がなり、実美は宮中で天皇を支える内大臣に移った。名誉の職と見られがちだが、天皇を補佐する重要な役目であった。実美は薩摩と長州の間を取りもつ役割を自ら担い、政府の混乱を収めた。

1889年

憲法を天皇に差し出す

大日本帝国憲法の発布の式典で、天皇のそばに控え、憲法の文を天皇に差し出す役目を務めた。同じ年、条約改正の交渉が行きづまって黒田内閣が辞職すると、内大臣のまま短い間だけ総理大臣の役目を兼ねた。家臣の中で最も高い席を与えられ、最高の功臣として扱われた。

1891年

国葬で送られる

インフルエンザにかかって亡くなった。亡くなる前の日には明治天皇がみずから見舞いに訪れ、最高の位を授けた。葬儀は国葬として行われ、各地でも人々が自ら追悼の会を開いた。葬儀の日はよく晴れて暖かく、天皇はそのような日和を三条日和と呼んだと伝わる。

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