何をした人?
江戸幕府の10代将軍です。9代将軍徳川家重の長男として江戸城に生まれ、祖父の吉宗にかわいがられて育ちました。1760年に将軍となり、田沼意次を重く用いて政治を任せました。治世の終わりには浅間山の噴火と天明の飢饉が起こり、跡継ぎの家基を失う悲しみもありました。
| 名前 | 徳川家治 |
|---|---|
| 生没年 | 1737年(元文2年) – 1786年(天明6年) |
| 時代 | 江戸時代 |
| 出身地 | 江戸城 |
| 主な業績 |
|
のちの9代将軍徳川家重の長男として、江戸城西の丸で生まれた。幼い名は竹千代。祖父の8代将軍吉宗は、利発な孫の誕生を大いに喜んだと伝わる。言葉が不自由だった父に代わり、将来の幕府を担う子として期待を集めた。
元服して家治と名のった。祖父の吉宗は孫を手元でかわいがり、自ら学問や武芸を教えたと伝わる。書や乗馬、弓などを熱心に学び、跡継ぎとしての心構えを身につけていった。祖父への敬愛は生涯変わらなかった。
敬愛する祖父の吉宗が亡くなった。吉宗は享保の改革で幕府の財政を立て直した将軍で、家治に将軍としての心得を伝え残したと伝わる。このころ、父の家重はすでに9代将軍となっており、家治は世継ぎとして西の丸で暮らしていた。
京都の閑院宮家から迎えた五十宮倫子と結婚した。夫婦仲はとてもよく、家治は側室をほとんど置かなかったことで知られる。二人の間には娘が生まれた。歴代の将軍のなかでも、妻を大切にした人物として語られている。
父の家重が将軍を退き、10代将軍となった。父は田沼意次を「正直な者だから大切に使うように」と言い残したと伝わり、家治はその言葉を守って意次を重く用いた。家治自身は政治の多くを信頼する家臣に任せ、将棋や絵に親しんだ。
側室のお知保の方との間に、長男の家基が生まれた。家基は聡明で武芸にも優れ、将来を期待された。家治は跡継ぎの誕生を喜び、成長を楽しみにした。この子に寄せた大きな期待は、のちに深い悲しみへと変わることになる。
側用人として仕えていた田沼意次を老中に取り立てた。意次は商人の力を生かし、株仲間を認めて税を集めたり、蝦夷地の開発を考えたりする新しい政治を進めた。この時代を田沼時代という。この年には江戸で大火事も起きた。
跡継ぎの家基が鷹狩りの帰りに急に具合が悪くなり、そのまま亡くなった。家治は深く悲しみ、長くふさぎこんだと伝わる。期待をかけていた子を失ったことは、将軍家の跡継ぎ問題を大きく揺るがした。
一橋家の豊千代を養子に迎え、跡継ぎとした。のちの11代将軍家斉である。この養子選びには、一橋家と結びつきの深かった田沼意次が関わったとされる。こうして将軍家の血筋は、吉宗の流れをくむ一橋家へと受け継がれていった。
浅間山が大噴火し、冷夏も重なって天明の飢饉が東北を中心に広がった。多くの人が飢えに苦しみ、各地で百姓一揆や打ちこわしが起きた。米の値段が上がり、商人と結びついた田沼の政治への不満が高まっていった。
田沼意次の子で若年寄の意知が、江戸城の中で旗本の佐野政言に斬りつけられ、その傷がもとで亡くなった。町の人々の中には政言を「世直し大明神」とたたえる者もいた。田沼の勢いは、この事件を境に大きくかげり始めた。
病のため江戸城で亡くなった。死因は脚気ともいわれ、亡くなった日付にも諸説ある。その直後、後ろ盾を失った田沼意次は老中を退かされた。家治は将棋の名手としても知られ、自ら作った詰将棋の作品集が今も伝わっている。
A. 江戸幕府の10代将軍です。9代将軍徳川家重の長男として江戸城に生まれ、祖父の吉宗にかわいがられて育ちました。1760年に将軍となり、田沼意次を重く用いて政治を任せました。治世の終わりには浅間山の噴火と天明の飢饉が起こり、跡継ぎの家基を失う悲しみもありました。
A. 江戸時代の人物です。1737年(元文2年)に生まれ、1786年(天明6年)に亡くなりました。
A. 徳川家治は江戸城の生まれです。
A. 家治は、父の家重の代から仕えていた田沼意次を信頼し、側用人から老中へと取り立てて政治を任せました。意次は商業を重んじる政策を進めましたが、家治が亡くなると間もなく老中を退くことになりました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
この人の一生をたどる(自動再生)本居宣長杉田玄白円山応挙上田秋成林子平恋川春町伊能忠敬塙保己一
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。