尾張の中村(名古屋市)に生まれた。母が豊臣秀吉の母と親類だったといわれ、その縁で幼いころから秀吉に仕えた。
賤ヶ岳の戦いで手柄を立て、福島正則らとともに「賤ヶ岳の七本槍」の一人とたたえられた。
肥後(熊本県)の北半分をあたえられ、大名となった。川の流れを変えたり堤防を築いたりする治水工事や新田開発に力を入れ、今も「清正公さん」と親しまれている。
文禄の役で朝鮮に渡り、北部まで攻め進んで朝鮮の王子二人をとらえた。朝鮮で虎を退治したという話も伝わる。
朝鮮での戦い方をめぐり石田三成らと対立し、秀吉に謹慎を命じられた。伏見の大地震のとき、真っ先に秀吉のもとへかけつけて許されたという話が伝わる。
慶長の役でふたたび朝鮮に渡った。築いたばかりの蔚山城で明・朝鮮の大軍に囲まれ、水や食べ物がつきる苦しい籠城にたえた。
前田利家が亡くなった直後、福島正則らとともに石田三成をおそおうとした。豊臣家の家臣どうしの対立が深まっていった。
東軍につき、九州で西軍の小西行長の城などを攻めた。戦いのあと、肥後一国をあたえられた。
このころ、大きな石垣で知られる熊本城を完成させ、地名を「隈本」から「熊本」に改めた。城づくりの名人として知られた。
京都の二条城で徳川家康と豊臣秀頼が会見したとき、秀頼に付き添った。熊本へ帰る船の中で病気になり、熊本で亡くなった。
豊臣秀吉前田利家徳川家康豊臣秀頼鍋島直茂ねね(高台院)池田輝政契沖
石田三成直江兼続井伊直政福島正則前田利長細川ガラシャ加藤嘉明細川忠興
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。