何をした人?
大和(奈良県)の戦国大名です。幼くして家督を継ぎ、松永久秀と大和をめぐって長く争いました。のちに織田信長に従って大和一国を任され、郡山城を本拠としました。本能寺の変では親しかった明智光秀に味方せず、羽柴秀吉の側につきました。
| 名前 | 筒井順慶 |
|---|---|
| 生没年 | 1549年(天文18年) – 1584年(天正12年) |
| 時代 | 戦国時代 |
| 出身地 | 大和国 |
| 別名 | 陽舜房順慶 |
| 主な業績 |
|
大和国(奈良県)の筒井順昭の子として生まれた。筒井家は興福寺に属する僧兵の一族から武士となった家で、父の代には大和でいちばん大きな武士団になっていた。大和には守護がおらず、興福寺の力のもとで筒井氏・越智氏などの武士が争っていた。
父の順昭が病で亡くなり、まだ幼い順慶が叔父の後見を受けて家督を継いだ。父が死の前に、自分によく似た木阿弥という人を身代わりにして死を隠させ、のちに木阿弥は元の身分に戻ったという話が「元の木阿弥」の由来の一つとして伝わる(諸説あり)。
三好氏の重臣・松永久秀が大和に攻め込み、勢力を広げていた。この年、久秀の不意の攻撃を受けて、順慶は本拠の筒井城を追われ、一族の布施氏のもとへ逃れた。家臣の中にも順慶から離れる者が出て、筒井家は苦しい立場に追いこまれた。
三好三人衆と手を結んで反撃し、筒井城を取り戻した。その後、春日大社に参ったうえで出家の儀式を受け、陽舜房順慶と名乗った。順慶という名はこのときからである。武将でありながら僧の名を持ったのは、興福寺と深く結びついた筒井家ならではだった。
順慶は三好三人衆とともに奈良の東大寺に陣を置き、多聞山城の松永久秀と向かい合った。久秀軍が東大寺に攻め入って激しい戦いとなり、その中で大仏殿が焼け落ちた。この戦いでは久秀の側が勝ち、順慶はその後も長く久秀と大和をめぐって争い続けた。
辰市の戦いで松永方の軍を破り、筒井家の力を取り戻した。同じ年、明智光秀の仲立ちで織田信長に従うことになった。のちに信長のもとへ母を人質として送り、信長の一族の女性を妻に迎えたとされるなど、織田家との結びつきを強めていった。
信長から、大和一国の支配を任された。順慶は明智光秀の組下として各地の戦いに加わり、光秀とは親しい間柄になった。翌年、松永久秀が信長に背いて信貴山城にたてこもると、順慶は攻める軍の先頭に立ち、久秀は城で最期を迎えた。
信長の命令で、大和の中の城は本拠とする一つを残して取りこわされることになった。順慶は筒井城などを壊し、新たに郡山城を本拠として整えた。郡山城はのちに豊臣秀長の城となり、江戸時代の大和郡山の城下町へと受けつがれていった。
明智光秀が本能寺の変を起こすと、親しかった順慶は味方になるよう誘われた。順慶は迷った末に兵を動かさず、羽柴秀吉の側についた。光秀が洞ヶ峠に陣を置いて順慶を待ったことから、のちに順慶が様子見をしたとする「洞ヶ峠」の話が生まれたが、事実とは異なるとされる。
秀吉に従って大和の領地を認められたが、胃の病が重くなり、京都で名医の曲直瀬道三の治療を受けたものの回復しなかった。郡山城へ戻ってまもなく亡くなった。順慶は茶の湯や能、和歌にも通じた教養人で、跡は養子の定次が継いだ。
A. 大和(奈良県)の戦国大名です。幼くして家督を継ぎ、松永久秀と大和をめぐって長く争いました。のちに織田信長に従って大和一国を任され、郡山城を本拠としました。本能寺の変では親しかった明智光秀に味方せず、羽柴秀吉の側につきました。
A. 戦国時代の人物です。1549年(天文18年)に生まれ、1584年(天正12年)に亡くなりました。
A. 筒井順慶は大和国の生まれです。
A. 本能寺の変のあと、明智光秀が洞ヶ峠に陣を置いて順慶を待ったことから、順慶が峠で様子見をしたという「洞ヶ峠をきめこむ」の話が生まれました。しかし実際には順慶は兵を動かさず、のちに羽柴秀吉の側についたとされ、この話は事実とは異なると考えられています。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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