美濃国厚見郡茜部で、斎藤道三の家臣・堀秀重の長男として生まれた。通称は久太郎。幼いころは、一向宗の僧となっていた伯父のもとで、いとこの堀直政とともに育てられたという。直政はのちに秀政をもっとも近くで支える重臣となり、生涯の相棒となった。
はじめは大津長昌、次いで木下秀吉に仕えたが、少年のうちに才能を認められて織田信長の小姓に取り立てられた。信長のそばには菅屋長頼や長谷川秀一ら有能な側近が多く、秀政は彼らと肩を並べて主君の身の回りの仕事や命令の伝達を務めた。
将軍足利義昭の仮住まいである京都の本圀寺の工事を取りしきる奉行を、まだ十代の若さで任された。これをきっかけに秀政はさまざまな奉行の仕事をこなし、信長の側近としての地位を固めた。仕事を的確にさばく力は、のちに武将としても大いに生かされる。
二年前の越前の一向一揆の討伐に加わったのに続き、この年の紀伊の雑賀攻めでは、信長の本陣を離れて佐久間信盛や羽柴秀吉とともに一隊を率いた。翌年の有岡城の戦いでは鉄砲隊を指揮するなど、側近としてだけでなく、戦場での指揮官としても力を示した。
信長の居城のある安土で、浄土宗と法華宗の僧が教えの優劣を争った安土宗論では、菅屋長頼や長谷川秀一らとともに奉行を務めた。翌年には宣教師のための屋敷の造営にも関わった。伯父が一向宗の僧であった縁から、本願寺との交渉にもあたったと考えられている。
伊賀攻めで信楽口からの部隊を率いて戦い抜いた。この働きに加え、荒木村重の討伐や越前の一向一揆の平定での功績が認められ、信長から近江の長浜城と二万五千石を与えられた。側近から城持ちの大名へ、秀政は大きな一歩を踏み出した。
信長の使いとして備中の秀吉のもとにいたとき、本能寺の変の知らせを受けた。秀吉とともに急いで引き返し、山崎の戦いでは中川清秀や高山右近らと先陣を務めた。さらに明智秀満を近江の坂本城に追いつめ、信長を倒した明智方を打ち破るのに大きく貢献した。
清洲会議の結果、近江の一部を与えられ、信長の孫で織田家の跡継ぎとされた三法師の守り役を任された。その後の織田家中の争いでは秀吉の側に立ち、秀吉の一族以外で初めて羽柴の名字を与えられた人物と考えられている。秀吉の厚い信頼がうかがえる。
賤ヶ岳の戦いのあとの処置として、近江の佐和山城を与えられ、左衛門督の官職も得た。秀政が各地を転戦している間、佐和山城では父の秀重や弟が城代として領地を治めた。家族ぐるみで秀吉の天下取りを支える体制がととのえられていった。
小牧・長久手の戦いで、徳川家康の本拠三河をつく作戦に第三陣として加わった。先を行く羽柴秀次の隊が徳川軍の不意打ちで崩れると、逃げてきた兵をまとめて桧ヶ根に陣を敷き、追ってきた榊原康政らを打ち破った。家康本人が出てきたと知ると、無理をせず兵を引いた。
越前の北ノ庄で十八万石あまりを与えられ、「北之庄侍従」とよばれる大大名となった。荷物の重さで争う者たちを見て自ら荷を背負って確かめたという逸話など、下の者の気持ちをよく考える人柄が伝わり、「名人久太郎」とたたえられた。
豊臣秀吉の九州平定では、秀吉が西へ向かう際に先鋒の部隊を任された。この遠征中、近くに仕える者が乱心して背後から斬りかかったが、秀政はとっさに振り返ってこれを退けたと伝わる。大事な戦いで先頭を任されるほど、秀吉の信頼は厚かった。
小田原征伐では左の備えの大将を命じられ、箱根の山中城を落として小田原の早川口まで攻め込み、海蔵寺に本陣を置いた。しかし陣中で病にかかり、急に亡くなった。秀吉は何度も容体を尋ねて心配したという。出陣の前に描いた自画像が菩提寺に伝わっている。
ねね(高台院)榊原康政高山右近毛利輝元角倉了以蒲生氏郷藤堂高虎上杉景勝
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。