何をした人?
江戸時代前期の播磨赤穂藩の藩主です。幼くして藩主となり、朝鮮通信使や勅使のもてなし役、江戸の火消しなどを務めました。1701年、江戸城の松の廊下で吉良義央に斬りかかり、その日のうちに切腹を命じられました。これがのちの赤穂浪士の討ち入り、赤穂事件の発端となりました。
| 名前 | 浅野長矩 |
|---|---|
| 生没年 | 1667年(寛文7年) – 1701年(元禄14年) |
| 時代 | 江戸時代 |
| 主な業績 |
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播磨赤穂藩(今の兵庫県赤穂市)の藩主の跡継ぎ・浅野長友の長男として、江戸鉄砲洲の浅野家屋敷で生まれた。浅野家は豊臣秀吉に仕えた浅野長政の流れをくむ家で、赤穂は塩づくりで栄える豊かな藩だった。
母の波知が亡くなった。母は内藤家の出身だった。このとき長矩はまだ幼く、母の記憶はほとんどなかったと考えられる。藩主となった父のもとで、家臣たちに囲まれて育てられることになった。
父の長友も亡くなり、幼い長矩が赤穂浅野家をついで3代藩主となった。同じ年、4代将軍徳川家綱に初めて会い、父の形見の刀を差し出した。また、親類の三次藩主の娘・阿久里との結婚の約束が幕府に認められた。
朝廷から従五位下に叙され、祖父と同じ内匠頭の官職を与えられた。以後「浅野内匠頭」とよばれる。この年、叔父の内藤忠勝が寺での法事の最中に他の大名を斬りつけ、切腹を命じられる事件が起きた。身内の悲劇は長矩の身近な出来事だった。
幕府から朝鮮通信使をもてなす役に選ばれ、伊豆の三島で使節の一行を接待した。朝鮮通信使は朝鮮国王が将軍のもとへ送った使節団で、大名が手分けして道中のもてなしにあたった。若い藩主にとって重い務めだった。
天皇の使いである勅使を江戸でもてなす勅使饗応役を務めた。このとき作法を教えたのが、のちに因縁の相手となる高家の吉良義央だった。同じ年、初めて領地の赤穂に入り、家老の大石良雄ら国元の家臣たちと対面した。
弟の長広とともに、兵学者の山鹿素行に入門の誓いの書を出した。素行はかつて赤穂に預けられていた学者で、武士の道を説く山鹿流の兵学は赤穂の家臣たちにも大きな影響を与えた。素行は翌年に江戸で亡くなった。
江戸の本所の火消しを命じられ、以後たびたび火消し大名として活躍した。木造の家が密集する江戸では大火事が多く、大名にも消火の役目が割り当てられていた。長矩は火消しの指揮に熱心だったと伝わる。
備中松山藩(今の岡山県高梁市)が取りつぶされると、その城を受け取る役を命じられた。長矩は約3500人の軍勢を率いて赤穂をたち、城の明け渡しを無事に終えた。その後は家老の大石良雄を城に残し、管理を任せた。
天然痘にかかって一時は命が危ぶまれたため、子のなかった長矩は弟の長広を正式な跡継ぎとした。その後、病は治った。妻の阿久里との間に子はなく、家を守るための備えだった。この決定は、のちの浅野家の運命にも関わることになる。
二度目の勅使饗応役を務めていた最中、江戸城本丸の松の廊下で、指南役の吉良義央に小刀で斬りかかった。理由ははっきりせず、諸説ある。将軍綱吉は激しく怒り、長矩はその日のうちに切腹を命じられて世を去った。一方、吉良にはおとがめがなかった。
長矩の死によって赤穂藩は取りつぶされ、赤穂城は家老の大石良雄のもとで静かに明け渡された。翌年の末、大石ら旧家臣47人が吉良邸に討ち入り、主君の無念を晴らした。この赤穂事件は「忠臣蔵」として語り継がれ、長矩の名も広く知られるようになった。
A. 江戸時代前期の播磨赤穂藩の藩主です。幼くして藩主となり、朝鮮通信使や勅使のもてなし役、江戸の火消しなどを務めました。1701年、江戸城の松の廊下で吉良義央に斬りかかり、その日のうちに切腹を命じられました。これがのちの赤穂浪士の討ち入り、赤穂事件の発端となりました。
A. 江戸時代の人物です。1667年(寛文7年)に生まれ、1701年(元禄14年)に亡くなりました。
A. はっきりした理由はわかっていません。勅使をもてなす役目の指導を受ける中で恨みを抱いたとする説などがありますが、長矩自身は理由を語らないまま亡くなりました。理由については今も諸説あります。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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