日本史人生シミュレーター

蜂須賀正勝

豊臣秀吉を支えた側近で、徳島藩蜂須賀家の祖
時代:戦国時代 / 1526年〜1586年(60歳ほど)
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歩んだ道

1526年

尾張の土豪の家に生まれる

尾張国海東郡蜂須賀郷(今の愛知県あま市)の土豪の家に生まれた。通称は小六として知られる。木曽川の水運にかかわる「川並衆」の一人だったとする記録もあるが、確かではない。生母は彼が幼いころに亡くなったと伝わる。

1553年

斎藤道三に仕える

父が亡くなると、正勝は故郷を出て美濃の斎藤道三のそば近くに仕えた。尾張と美濃の争いの中でしばしば道三に用いられ、はじめに名のった利政という名も道三から一字を受けたものらしい。このころは、尾張の織田家とは敵どうしの立場にあった。

1556年

長良川の戦い

道三とその子の斎藤義龍が争った長良川の戦いで、正勝は道三の側について戦った。しかし道三は敗れて世を去った。その後、正勝は尾張の岩倉城主織田信賢に仕え、城内で起きた反乱をしずめる手柄を立てて、褒美の衣を授けられたという。

1566年

墨俣の築城に加わる

美濃攻めを進める織田信長のもとで、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が墨俣に城を築いたとき、正勝は弟とともに川筋の仲間を率いてこれに協力した。その後も秀吉の与力として、斎藤方の武士を味方に引き入れる案内役を務め、信長から褒美の領地を与えられた。

1578年

黒田家との縁組み

秀吉の取り決めにより、正勝の娘と黒田孝高(官兵衛)の長男松寿丸(のちの黒田長政)との婚約がまとまった。秀吉は、左右の腕ともいえる二人の重臣を親戚にすることで、家臣の結束を固めようとしたのである。この年、荒木村重の反乱を討つ戦いにも加わった。

1579年

三木城攻めで活躍

中国攻めの中で、秀吉は播磨の三木城を長い間取り囲んで兵糧攻めにした。正勝は、敵の毛利方の小早川勢が城へ兵糧を運び込もうとしたのを大村で打ち破り、食糧の補給を食い止めた。この働きは、三木城を落とすうえで大きな意味を持った。

1580年

龍野城主となる

子の家政とともに播磨の長水城を攻め落とし、その功で初めて城主となった。播磨が平定されると、秀吉は姫路城を本拠とし、正勝には龍野城と5万3000石が与えられた。尾張の土豪から身を起こした正勝は、ついに一城の主となったのである。

1582年

高松城と中国大返し

備中高松城を水攻めにした戦いで、正勝は黒田孝高とともに毛利方との交渉にあたった。本能寺の変で信長が倒れると、秀吉の命で知らせが敵にもれないよう固く守り、毛利氏との和睦をまとめた。そして秀吉の大軍とともに引き返し、山崎の戦いに臨んだ。

1584年

秀吉の筆頭の老臣に

毛利氏との交渉役を務め続けた正勝は、この年ごろには秀吉の家中で最も重んじられる老臣となった。大坂城のすぐそばに屋敷を与えられ、側近として毎日城に通った。一方で、龍野の領地の経営はすでに子の家政に任せ、家の当主の座も譲っていた。

1585年

阿波一国を辞退する

四国攻めを前に、秀吉は勝利のあかつきには阿波一国を与えると正勝に伝えた。しかし正勝は、すでに年老いて隠居の身であり、大坂で秀吉のそばに仕えたいとしてこれを辞退し、子の家政に与えてほしいと願った。こうして阿波は家政に与えられ、徳島藩の始まりとなった。

1586年

大坂での最期

この年、病にかかって京都で養生し、いったんは持ち直して大坂に戻ったが、まもなく大坂の屋敷で亡くなった。秀吉と若いころに橋の上で出会ったという有名な話は、江戸時代の読み物で作られたものとされている。実際の正勝は、交渉と調略にすぐれた秀吉の重臣であった。

この時代に起きたこと

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