肥前の水ヶ江城で、龍造寺周家の子として生まれた。母は慶誾尼。龍造寺氏は肥前の守護少弐氏に仕える家だったが、曽祖父の家兼のもとで力をつけ、主家の少弐氏としだいに対立するようになっていた。
幼くして宝琳院に入り、出家して円月と名のった。武家の子が寺で育つことは珍しくなく、ここで読み書きや仏教の学問を身につけたとみられる。この時点では、のちに一族を率いる立場になるとはまだ考えられていなかった。
少弐氏の重臣馬場頼周のはかりごとで、祖父の家純と父の周家ら一族の多くが命を落とした。九十歳を超えていた曽祖父の家兼は筑後の蒲池氏を頼って逃れた。円月は寺にいたため難を逃れたが、一族は大きな危機に立たされた。
家兼は蒲池氏の助けで肥前に戻り、馬場頼周を討って龍造寺氏を立て直したが、まもなく亡くなった。その遺言によって円月は寺を出て武士に戻り、水ヶ江龍造寺家を継いだ。僧として育った少年が、一族の再興を背負うことになった。
龍造寺の本家にあたる村中龍造寺家の当主胤栄が亡くなると、家臣たちに推されて本家も継ぎ、胤栄の未亡人を妻に迎えた。こうして龍造寺一族をまとめる立場となり、まもなく大内義隆から名の一字を受けて隆胤、さらに隆信と名のった。
後ろ盾だった大内義隆が家臣の陶隆房に倒されると、龍造寺氏の家臣の中にも隆信にそむく者が現れ、隆信は佐賀を追われた。かつて曽祖父がそうしたように、筑後の蒲池鑑盛を頼って身を寄せ、再起の機会を待った。
蒲池鑑盛の援助を受けて兵を挙げ、肥前に攻め戻って佐賀の城を取り戻した。そむいた家臣たちを破って家中の主導権を固め、ここから隆信は肥前の諸勢力を一つずつ従えていく戦いを本格的に始めることになる。
隆信はかつての主家で一族の仇でもある少弐氏を攻め、当主の少弐冬尚を勢福寺城に追いつめた。冬尚は城で最期を迎え、鎌倉時代から続いた少弐氏は滅んだ。義弟の鍋島直茂の働きもあり、龍造寺氏は肥前東部の支配を固めた。
豊後の大友宗麟が大軍を送り込み、佐賀城を包囲した。城内では籠城を説く声が強かったが、鍋島直茂の進言で夜襲をかけ、今山に陣取る大友親貞の軍を破った。圧倒的に不利な戦いでの勝利は、龍造寺氏の名を九州に広めた。
この年までに肥前南部の有馬氏や大村氏を従え、肥前をほぼ手中に収めた。さらに大友氏が日向の耳川の戦いで島津氏に大敗すると、その隙に筑後や筑前、肥後へと兵を進め、九州北部の広い地域を勢力下に置いた。
隆信は家督を子の政家に譲って須古城に移ったが、その後も実権を握り続けた。このころの隆信は「五州二島の太守」と呼ばれるほどの勢いを誇った。一方で、酒色におぼれ、諫める直茂を遠ざけるようになったとも伝わる。
島津氏に通じたとして、筑後柳川城主の蒲池鎮漣を佐賀に誘い出して討ち、蒲池一族を滅ぼした。鎮漣はかつて隆信を助けた蒲池鑑盛の子だった。この苛烈な処置は筑後の武士たちの反感を招き、龍造寺氏から離れる者も出た。
島原半島の有馬晴信が島津氏と結んでそむくと、隆信は大軍を率いて攻め込んだ。しかし湿地にはさまれた細い道の沖田畷で島津家久らの軍に敗れ、隆信は戦場で命を落とした。55歳だった。龍造寺氏はこれを境に力を失っていった。
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