日本史人生シミュレーター

酒井忠次

徳川四天王の筆頭
時代:戦国時代 / 1527年〜1596年(69歳ほど)
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歩んだ道

1527年

誕生

三河の松平氏に代々仕える酒井忠親の子として生まれた。酒井家は松平家と古くからつながる重臣の家柄だった。忠次は家康より15歳ほど年上で、のちに家康の父の代から松平家を支える立場となる。

1549年

人質の家康に仕える

幼い竹千代(のちの家康)が今川氏の人質として駿府へ送られたとき、忠次もこれに従ったと伝わる。年代には諸説ある。主君のいない苦しい時代に、家臣たちは今川氏の下で耐えながら松平家の再興を待った。

1560年

家康の独立

桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、家康は岡崎城に戻り、今川から独立した。忠次は重臣として家康を支え、織田信長との同盟や三河の平定に力を尽くした。ここから主従の長い歩みが始まる。

1563年

三河一向一揆

三河で一向宗の門徒が大規模な一揆をおこし、家康の家臣の中にも一揆側につく者が多く出た。酒井一族からも一揆に加わる者がいたが、忠次は家康の側に立ち続けた。この戦いを乗りこえ、家康は家臣団を立て直した。

1565年

吉田城主となる

東三河の要である吉田城(今の豊橋)を任され、東三河の国衆をまとめる旗頭となった。西三河は石川家成(のちに数正)がまとめ、家康の軍は二人を両輪として動くしくみが整えられた。

1570年

姉川の戦い

織田信長とともに近江の姉川で浅井・朝倉の連合軍と戦い、徳川軍の先陣の一人として奮戦した。同盟相手の信長のために遠くまで兵を出すことで、徳川家は織田家からの信頼をさらに深めた。

1572年

三方ヶ原の戦い

武田信玄の大軍に徳川軍は三方ヶ原で大敗した。浜松城に逃げ帰った家康のもとで、忠次が城の太鼓を打ち鳴らして味方を励まし、追ってきた武田軍に用心させたという逸話が伝わるが、確かな記録ではない。

1575年

長篠の戦いで奇襲を成功させる

長篠の戦いで、武田方の鳶ノ巣山砦を夜のうちに回りこんで奇襲する策を進言し、自ら別動隊を率いて砦を落とした。退路を断たれた武田軍は設楽原へ出て決戦にのぞみ、織田・徳川軍の大勝につながった。

1579年

信康事件

家康の長男信康が、信長の疑いを受けて自害に追いこまれる事件がおこった。忠次が信長への弁明の使者となったが疑いを晴らせなかったとする説があるが、事件の経緯には諸説あり、今もはっきりしていない。

1584年

小牧・長久手の戦い

家康が羽柴秀吉と戦った小牧・長久手の戦いで、尾張の羽黒に出てきた森長可の軍を攻め破った。この勝利は戦い全体の流れを徳川方に引き寄せるきっかけの一つとなり、老練な将としての力を示した。

1588年

隠居して京に住む

目の病などもあって家督を子の家次にゆずり、京で暮らすようになった。豊臣秀吉からも屋敷や生活のための領地を与えられたとされ、家康の重臣として豊臣政権からも重んじられていたことがわかる。

1596年

京で死去

京で亡くなった。家康の若いころから軍事と外交の両面で支え続けた忠次は、のちに本多忠勝・榊原康政・井伊直政とともに「徳川四天王」と呼ばれ、その筆頭とされている。子孫は庄内藩主として続いた。

この時代に起きたこと

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