何をした人?
幕末から大正時代の政治学者・教育者です。但馬国出石藩の兵学師範の家に生まれ、佐久間象山に学んだのち、蕃書調所でドイツ語を学びました。明治初めには天賦人権論を紹介しましたが、のちに『人権新説』で社会進化論の立場に転じました。東京大学の初代綜理、帝国大学総長を務めました。
| 名前 | 加藤弘之 |
|---|---|
| 生没年 | 1836年(天保7年) – 1916年(大正5年) |
| 時代 | 江戸末〜大正時代 |
| 出身地 | 但馬国出石 |
| 主な業績 |
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但馬国出石藩(今の兵庫県豊岡市)の藩士で、兵学の師範を務める加藤正照の長男として生まれた。少年時代は藩校の弘道館で学び、家の仕事である兵学を受け継ぐことを期待された。のちに西洋の学問へと大きく道を広げていく。
江戸に出て、佐久間象山のもとで洋式の兵学を学んだ。象山は西洋の技術を積極的に取り入れることを説いた学者で、多くの若者がその門をたたいた。弘之はここで、西洋の知識が日本の将来に欠かせないことを強く感じた。
幕府が西洋の書物を研究するために置いた蕃書調所の教授手伝となった。ここで当時まだほとんど学ぶ人のいなかったドイツ語を学び始め、のちに日本のドイツ学の先がけとなった。西洋の政治や法律の本を読み、その仕組みに強く心をひかれた。
中国の政治にたとえる形で、西洋の議会や立憲政治の仕組みを紹介した『鄰草』を書いた。日本で初めて立憲政治を紹介した書物の一つとされる。幕府をはばかって当時は広く出回らなかったが、弘之の思想の出発点となった。
学問の力を認められ、幕府の開成所の教授職となり、幕府の直臣に取り立てられた。小さな藩の武士の子が、学問によって幕府に仕える身となったのである。幕府の終わりが近づく中、西洋の制度を伝える学者として重んじられた。
明治維新の年に『立憲政体略』を出版し、国のかたちには君主が独裁する政治、君主と人民が共に治める政治、人民が治める政治があることをわかりやすく説いた。新しい国のあり方を考える人々に広く読まれ、新政府にも仕えるようになった。
『真政大意』を著し、人はみな生まれながらに自由と権利を持つという天賦人権論を日本に紹介した。また明治天皇に西洋の学問を講義する役も務めた。弘之は、西洋の新しい考え方を伝える代表的な学者として知られるようになった。
森有礼の呼びかけで生まれた学者の集まり・明六社に加わった。福沢諭吉や西周、中村正直らとともに雑誌で意見を発表し、新しい社会のあり方について議論を重ねた。明六社は、文明開化の考えを人々に広める大きな役割を果たした。
『国体新論』を出す一方、板垣退助らが出した民撰議院設立建白書に対しては、国民の知識がまだ十分でないとして、議会を開くのは早すぎると反論した。この論争は新聞をにぎわせ、自由民権運動の高まりのきっかけの一つとなった。
東京大学が生まれると、法学部・理学部・文学部をまとめる綜理となった。日本で最初の近代的な大学の運営を担い、外国人教師を招いて西洋の学問を教える仕組みを整えた。多くの人材を育てる場づくりに力をつくした。
『人権新説』を出版し、生き物の世界と同じく人間社会でも強い者が勝ち残るという社会進化論の立場から、かつて自ら説いた天賦人権論を否定した。その前には天賦人権を説いた自分の本を絶版にしていた。民権派の人々から激しい反論が寄せられ、大きな論争となった。
帝国大学の2代目の総長となり、同じ年に天皇から選ばれて貴族院の議員にもなった。大学の長として学問の発展を支えるとともに、政治の場でも意見を述べた。のちに男爵の位を与えられ、枢密顧問官も務めた。
すぐれた学者を集めて学問の発展をはかる帝国学士院が新しい形で整えられると、その初代院長となった。長年にわたり日本の学問の世界を引っぱってきた功績が認められたものだった。晩年も研究と執筆を続けた。
東京で亡くなった。幕末に西洋の学問と出会い、立憲政治や天賦人権論を日本に紹介したのち、社会進化論へと考えを大きく改めた。その歩みは、明治の日本が西洋の思想をどう受け止めたかを映すものとして研究されている。
A. 幕末から大正時代の政治学者・教育者です。但馬国出石藩の兵学師範の家に生まれ、佐久間象山に学んだのち、蕃書調所でドイツ語を学びました。明治初めには天賦人権論を紹介しましたが、のちに『人権新説』で社会進化論の立場に転じました。東京大学の初代綜理、帝国大学総長を務めました。
A. 江戸末〜大正時代の人物です。1836年(天保7年)に生まれ、1916年(大正5年)に亡くなりました。
A. 加藤弘之は但馬国出石の生まれです。
A. 加藤は初め、人は生まれながらに権利を持つという天賦人権論を紹介しました。しかしダーウィンの進化論などに触れ、強い者が生き残るという社会進化論の考えに傾き、1882年の『人権新説』でそれまでの自説を改めました。この転向は自由民権派から強く批判されました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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