肥前で鍋島清房の次男として生まれた。母は龍造寺家純の娘で、龍造寺氏とは血のつながりがあった。鍋島氏は龍造寺氏に仕える家で、直茂は幼いころから龍造寺一族と深く結びついた環境で育つことになった。
龍造寺家兼の命令で、小城郡の千葉胤連の養子となった。周辺の有力な家と縁を結ぶための養子縁組だった。しかし4年後に龍造寺氏が少弐氏と敵対するようになると、父清房は縁組を解いて直茂を実家に呼び戻した。
龍造寺隆信の母慶誾尼が父清房の後妻となったため、直茂は隆信の従弟であると同時に義弟にもなり、厚く信頼された。直茂は隆信の戦いを支え、この年には龍造寺氏の宿敵だった少弐氏を滅ぼすことに力を尽くした。
豊後の大友氏の大軍が佐賀城を囲み、城内が籠城に傾く中で、直茂は夜襲を進言し、自ら部隊を率いて今山の大友親貞の陣を破った。この勝利を記念して、鍋島家の家紋を大友家の杏葉に改めたと伝わり、家中での存在感が大きく増した。
直茂は肥前南部の有馬氏や大村氏を従える戦いで功を立て、龍造寺氏の肥前支配を固めた。やがて隆信が隠居して子の政家が家督を継ぐと、直茂はその後見人を任された。隆信と並んで龍造寺の柱と呼ばれる存在になっていた。
隆信と謀って筑後柳川城主の蒲池鎮漣を討ったのち、直茂は柳川城に入り、筑後の政治を担当した。たびたび諫言する直茂を隆信がうとんじ、佐賀から遠ざけるために筑後へ回したのだとする見方も伝わっている。
隆信が沖田畷の戦いで島津・有馬軍に敗れて亡くなると、直茂は自らも命を絶とうとしたが家臣に止められ、肥前に退いた。そして政家を助けて龍造寺氏の立て直しに努め、島津氏との交渉でも粘り強く対応したと伝わる。
直茂は早くから豊臣秀吉と連絡を取り、九州平定では島津攻めの先陣を務めた。秀吉は龍造寺氏の肥前の領地を認めたうえで、病弱な政家に代わって直茂に国の政治を任せるよう命じ、直茂は独自の知行も与えられた。
秀吉の朝鮮出兵で、直茂は龍造寺の家臣団を率い、加藤清正を主将とする二番隊に加わって朝鮮半島に渡った。直茂は戦いの間ずっと朝鮮にとどまり、帰国したのは子の勝茂と交代した1597年のことだった。家臣団の心はますます直茂に集まった。
関ヶ原の戦いでは子の勝茂が初め西軍に加わったが、直茂は徳川方に心を通わせ、本戦の前に勝茂の軍を戦線から離れさせた。戦後は家康への忠誠を示すため、九州で西軍方の久留米城を攻め、立花宗茂の柳川城を開城させた。
龍造寺家の当主高房と、その父政家が相次いで亡くなり、龍造寺本家は途絶えた。幕府は龍造寺一門の支持も得て、直茂の子勝茂が跡を継ぐことを認めた。直茂は龍造寺家への遠慮から自らは藩主とならず、のちに藩祖と呼ばれた。
佐賀城の完成後は多布施に隠居して過ごし、この年に病のため亡くなった。耳の腫れ物に苦しんだ末の死だったことから、高房の霊のしわざとうわさされ、これがのちの鍋島化け猫騒動の物語のもとの一つになったと伝わる。
前田利家北条氏政足利義栄今川氏真本多正信長宗我部元親長谷川等伯豊臣秀長
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