土佐の吹井村(今の高知市)で、郷士の中でも上の身分である白札の家に生まれた。名は小楯、号は瑞山。土佐藩では上士と郷士の身分の差が大きく、この差がのちの活動にも影を落とすことになる。
このころ父母を相次いで失い、残された祖母を養いながら島村富子と結婚した。夫婦の仲はとてもよく、のちに半平太が獄中にあったときも、富子は夫の身を案じて質素な暮らしを続けたと伝わる。
一刀流などの剣術を修め、高知の城下で道場を開いた。多くの郷士の若者が集まり、中岡慎太郎や岡田以蔵らも門人となった。剣の師であると同時に、人柄で若者たちをまとめる指導者として慕われた。
江戸に出て、鏡心明智流の桃井春蔵の道場士学館に入り、まもなく塾頭となった。江戸では各地の武士と交わり、世の中の動きを肌で感じた。こうした経験が、のちに国の政治に目を向けるきっかけとなった。
江戸で長州の久坂玄瑞や薩摩の武士らと交わり、尊王攘夷の考えを強めた。土佐に戻って土佐勤王党を結成し、盟主となった。坂本龍馬も早くに加わり、郷士を中心に約二百人が名を連ねたとされる。
開国を進める藩の実力者吉田東洋が、勤王党の者たちによって命を奪われた。半平太が関わったとされ、この後、藩の政治は尊王攘夷の方向へ傾いた。半平太は藩主山内豊範に従って京へのぼった。
京で公家や各藩の志士と交わり、攘夷を幕府に求める勅使三条実美らが江戸へ下るとき、その供に加わった。郷士の出でありながら、朝廷と幕府の間を動く政治の舞台に立ち、半平太の名は全国に知られるようになった。
藩から上士の格に取り立てられ、京で藩の外交を担う役目についた。身分の壁をこえた出世だった。しかし前藩主の山内容堂は、勤王党の急な動きや東洋の暗殺に強い不満をもっていた。
京で八月十八日の政変がおこり、尊王攘夷派の公家や長州藩が京から追われた。流れが変わると、容堂は勤王党の取りしまりに乗り出し、半平太は土佐で捕らえられて獄に入れられた。獄中でも同志を思う手紙を書き続けた。
約一年半にわたる取り調べの末、藩の命により切腹を命じられ、その務めを静かに果たして生涯を終えた。満三十五歳だった。のちに明治政府から名誉を回復され、その志は郷土高知で長く語り継がれている。
小栗忠順山内容堂(豊信)西郷隆盛松平春嶽(慶永)吉田松陰清河八郎近藤勇橋本左内
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。