日本史人生シミュレーター

山内容堂(豊信)

大政奉還を建白した土佐藩主
時代:江戸末〜明治時代 / 1827年〜1872年(45歳ほど)
この人の一生をたどる(自動再生)

歩んだ道

1827年

分家に生まれる

土佐藩の分家である南邸山内家に、山内豊著の長男として生まれた。幼名は輝衛である。南邸山内家は千五百石の分家で、一族の中での序列は一番下であった。藩主の子は江戸の屋敷で育つのがふつうだったが、輝衛は高知の城下で育ち、本来なら藩主になる立場ではなかった。

1849年

思いがけず藩主となる

前の年、藩主の豊熈と、跡を継いだ弟の豊惇が相次いで亡くなり、山内家は取りつぶしの危機に陥った。そこで分家の豊信が選ばれ、島津斉彬や伊達宗城らのとりなしもあって、藩主となった。しかし隠居した先々代や保守的な重臣ににらまれ、思うように政治を動かせなかった。

1853年

吉田東洋を起用

ペリーの来航を受けて、幕府への意見書を学識で知られた吉田東洋に書かせた。これを機に藩政改革に乗り出し、東洋を重い役職に取り立てた。藩主となってからの数年、思うようにならない日々を酒と詩作でまぎらわせたといい、のちに自ら「鯨海酔侯」と名乗るほど酒と詩を愛した。

1858年

四賢侯の一人として

福井藩の松平春嶽、宇和島藩の伊達宗城、薩摩藩の島津斉彬と交わり、四賢侯とよばれた。彼らは幕府の政治にも積極的に意見し、病弱な将軍徳川家定の跡継ぎに一橋慶喜を推した。しかし大老となった井伊直弼は紀州の徳川慶福を跡継ぎに決め、豊信らと真っ向から対立した。

1859年

隠居と謹慎

井伊直弼による安政の大獄が進む中、豊信は藩主の座を前藩主の弟の豊範に譲って隠居し、のちに容堂と号した。それでも幕府から謹慎を命じられ、江戸の屋敷にこもることになった。藩の外での活動を封じられた容堂は、土佐の政治の行方を遠くから見守るしかなかった。

1862年

吉田東洋を失う

尊王攘夷の考えが広がる中、土佐藩でも武市半平太が率いる土佐勤王党が力を伸ばし、容堂が信頼する公武合体派の吉田東洋と対立した。そしてこの年、東洋は勤王党の者たちによって命を奪われた。その後、武市は保守的な重臣と手を結び、藩の政治を動かすようになった。

1863年

土佐に戻り藩政を握る

京都で長州藩を追い落とす八月十八日の政変が起こると、尊王攘夷派の勢いは衰えた。謹慎を解かれた容堂は土佐に帰り、隠居の身のまま藩の政治を握った。そして東洋の死に深く関わった土佐勤王党の取りしまりに乗り出し、武市らを捕らえた。

1865年

勤王党への処分

長い取り調べの末、容堂は武市半平太に切腹を命じ、土佐勤王党は壊滅した。尊王の心を持ちながら幕府にも恩義を感じていた容堂の態度は、周りから分かりにくく見えた。酒に酔うと勤王、さめると佐幕と皮肉られたのも、このような複雑な立場を表している。

1867年

大政奉還を建白

四侯会議に加わったが、幕府の力を弱めようとする薩摩藩の主導を嫌って欠席を続けた。一方、坂本龍馬の考えを聞いた後藤象二郎が、政権を朝廷に返す案を自分の案として進言すると、容堂はこれを妙案と考え、将軍徳川慶喜に建白した。慶喜はこれを受け入れ、大政奉還が行われた。

1868年

小御所会議で慶喜をかばう

新政府の方針を決める小御所会議で、容堂は将軍だった慶喜を会議に加えるべきだと強く主張し、岩倉具視らと激しく言い争った。しかし慶喜に官位と領地を返させる案に決まった。続く鳥羽・伏見の戦いでは藩兵に戦いに加わらないよう命じたが、兵たちは新政府軍の側で戦った。

1869年

新政府を離れる

明治維新ののち新政府の名誉ある役職に就いたが、かつて家臣や領民であったような身分の者たちと肩を並べることになじめず、この年に辞めた。ただ木戸孝允とは仲がよく、自分の屋敷に招いては新しい政府の将来について語り合ったという。以後は東京で隠居生活を送った。

1872年

東京で亡くなる

酒のために体をこわし、この年の正月に脳の病の発作を起こして体の半分が動かなくなった。ドイツ人医師の治療で一時は回復したが、同じ年のうちに東京で亡くなった。板垣退助は、本来は慎み深い人だったとその晩年を惜しんだ。墓は東京の品川にある。

この時代に起きたこと

この人の一生をたどる(自動再生)

関係する人物

ペリー島津斉彬井伊直弼吉田東洋坂本龍馬徳川慶喜岩倉具視木戸孝允

同じ時代の人物(江戸)

ジョン万次郎楠本イネ河井継之助小栗忠順西郷隆盛松平春嶽(慶永)武市半平太(瑞山)吉田松陰

江戸の人物一覧 ・ 時代別の人物一覧

教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。

人物一覧へ