江戸城内にある田安家の屋敷で、田安家の当主・徳川斉匡の八男として生まれた。田安家は8代将軍吉宗の子から始まる徳川家の一門で、春嶽は将軍家に近い家柄に育った。
10歳で越前(福井県)の福井藩主となった。藩は大きな借金をかかえていたため、家臣の中根雪江らに支えられながら、倹約や財政の立て直しに取り組んだ。
藩の医者・笠原良策の願いを受け、天然痘を防ぐ種痘を広めることを後押しした。良策が苦労して手に入れた種痘の苗は、福井だけでなく各地へ広められた。
藩校・明道館を開き、学問と実用的な知識を学ばせた。若い橋本左内を取り立て、学校の運営や藩の改革を任せた。
熊本の学者・横井小楠を招き、藩の政治の相談役とした。小楠は藩の産物を外国とも取引して藩を豊かにする政策を説き、福井藩の改革を大きく進めた。
将軍の跡継ぎに一橋慶喜を推し、条約の調印にも抗議したため、大老・井伊直弼から隠居と謹慎を命じられた。このときから「春嶽」と名のった。翌年、腹心の橋本左内は安政の大獄で命を落とした。
謹慎を解かれ、幕府の政事総裁職という重い役についた。一橋慶喜とともに幕府の改革を進め、参勤交代をゆるめるなどの改革(文久の改革)を行った。
坂本龍馬が福井を訪れ、勝海舟の海軍塾のための資金の援助を頼んだ。春嶽はこれに応じたと伝わり、龍馬をはじめとする若い志士たちとのつながりを持った。
一橋慶喜・島津久光・山内容堂らと、朝廷の参預会議に加わった。有力な大名たちの話し合いで国の方針を決めようとしたが、意見がまとまらず、会議はまもなく解散した。
将軍慶喜が政権を朝廷に返す大政奉還を支持した。王政復古の後は新政府の議定となり、徳川家と新政府の対立をやわらげようと力を尽くした。
福井藩士の由利公正は新政府に加わり、五箇条の御誓文のもとになる案づくりにかかわった。春嶽も新政府の要職について、新しい国づくりに参加した。
民部卿や大蔵卿などをつとめたのち、政府の役職から退いた。その後は、幕末に自分が見聞きしたことを書き残す仕事などに取り組んだ。
東京で亡くなった。幕府と朝廷、藩どうしの間に立って争いを避けようとした春嶽は、幕末の「四賢侯」の一人に数えられている。
横井小楠井伊直弼島津久光勝海舟橋本左内坂本龍馬由利公正結城秀康
河井継之助小栗忠順山内容堂(豊信)西郷隆盛武市半平太(瑞山)吉田松陰清河八郎近藤勇
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