何をした人?
明治から昭和時代のジャーナリスト・歴史家です。肥後国に生まれ、同志社で新島襄に学びました。民友社を設立して雑誌『国民之友』や『国民新聞』を発行し、平民主義を唱えましたが、三国干渉をきっかけに国家主義へと考えを変えました。大著『近世日本国民史』を完成させ、文化勲章を受けました。
| 名前 | 徳富蘇峰 |
|---|---|
| 生没年 | 1863年(文久3年) – 1957年(昭和32年) |
| 時代 | 江戸末〜昭和時代 |
| 出身地 | 肥後国 |
| 主な業績 |
|
肥後国(今の熊本県)の母の実家で、徳富一敬の長男として生まれた。本名は猪一郎。徳富家は水俣で代々村役人を務めた家で、蘇峰も幼いころを水俣で過ごした。父は思想家横井小楠の弟子で、蘇峰も早くから学問に親しんだ。のちの作家徳冨蘆花は弟である。
熊本洋学校で西洋の学問やキリスト教に触れ、仲間と熊本バンドの結成に加わった。その後京都の同志社英学校に入り、創立者の新島襄から洗礼を受けた。新島の人柄に深く打たれ、生涯にわたって新島を師として敬い続けた。
学校の運営をめぐって学生たちが騒ぎを起こし、新島襄が自らの手を杖で打って生徒をさとす出来事が起きた。騒ぎの責任を感じた蘇峰は、卒業を目前にして同志社を去った。この出来事は、新島への敬愛をいっそう深めることにもなった。
熊本に戻り、父とともに私塾の大江義塾を開いた。イギリスの自由主義の思想家たちの本を学び、ふつうの人々の暮らしを大切にする平民主義の考えを育てた。若者たちに歴史や政治を熱心に教え、自らも書く力をみがいた。
『将来之日本』で評判を得て上京し、言論の団体民友社をつくって雑誌『国民之友』を始めた。政府による上からの近代化ではなく、平民の力による国づくりを説いて若者の心をつかんだ。民友社には弟の蘆花や国木田独歩らも加わった。
新たに国民新聞社をつくり、『国民新聞』を始めた。わかりやすく力強い文章で政治や社会を論じ、明治・大正・昭和の三つの時代にわたって世論をリードする言論人となった。新聞は多くの読者を得て、蘇峰の名は全国に知られた。
日清戦争のあと、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉によって日本が遼東半島を返したことに強い衝撃を受けた。国際社会では力がなければ何も守れないと考え、平民主義から国の力を重んじる立場へと大きく考えを変えた。この転向は「変節」と批判もされた。
日露戦争を終わらせるポーツマス条約に多くの新聞が反対する中、『国民新聞』はただ一つ賛成の立場をとった。そのため賠償金が取れなかったことに怒った群衆による日比谷焼打事件の際に、新聞社が襲われた。蘇峰は政府寄りの言論人とみなされるようになった。
日本の歴史を正しく書き残したいと考え、生涯の仕事となる『近世日本国民史』を書き始めた。はじめは明治以降を書くつもりだったが、それを知るには江戸時代から書く必要があるとして、織田信長の時代から筆を起こした。関東大震災の日も書き続けたと伝わる。
考えの違いなどから長く疎遠になっていた弟の徳冨蘆花が、群馬県の伊香保で重い病の床についた。知らせを受けた蘇峰はかけつけ、兄弟は久しぶりに再会して心を通わせた。蘆花はその直後に亡くなった。
長年の言論活動と『近世日本国民史』などの業績が認められ、文化勲章を受けた。戦争のさなか、蘇峰は言論人の団体の会長として、国の戦争を支える言論を盛んに発表していた。その影響力は大きく、のちに厳しく問われることになる。
敗戦後、戦争を支えた言論の責任を問われ、戦争犯罪の容疑者として名をあげられた。高齢と病気のため自宅で過ごすことが許され、のちに起訴されずに終わった。公職を退き、静岡県熱海で静かに暮らすようになった。
戦争で中断していた執筆を再開し、ついに『近世日本国民史』全百巻を書き上げた。書き始めてから三十年以上をかけた大作で、織田信長の時代から明治の初めまでを描いている。豊富な資料を引いた歴史書として、今も参考にされている。
熱海の自宅、晩晴草堂で亡くなった。明治から昭和まで言論の世界に立ち続け、平民主義から国家主義へと立場を変えたことには、今も賛否の声がある。一方で、生涯に書いた膨大な文章と歴史書は、近代日本を知る大切な手がかりとなっている。
A. 明治から昭和時代のジャーナリスト・歴史家です。肥後国に生まれ、同志社で新島襄に学びました。民友社を設立して雑誌『国民之友』や『国民新聞』を発行し、平民主義を唱えましたが、三国干渉をきっかけに国家主義へと考えを変えました。大著『近世日本国民史』を完成させ、文化勲章を受けました。
A. 江戸末〜昭和時代の人物です。1863年(文久3年)に生まれ、1957年(昭和32年)に亡くなりました。
A. 徳富蘇峰は肥後国の生まれです。
A. 作家の徳冨蘆花は蘇峰の弟です。蘆花は兄が営む民友社で働き、『不如帰』などを発表しましたが、考え方の違いなどから兄弟は長く疎遠になりました。1927年、病床の蘆花を蘇峰が見舞い、二人は和解したと伝わります。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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