世阿弥の弟・四郎の子として生まれた。名は元重。祖父の観阿弥が築いた観世の一座で育ち、幼いころから猿楽の舞や謡を身につけた。子のいなかった伯父の世阿弥の養子になったとされるが、のちに世阿弥に実子の元雅が生まれた。
若いころから、将軍足利義満の子で青蓮院の門跡だった義円に気に入られ、その後押しを受けた。この年には義円の支えで勧進猿楽を演じたとされる。勧進猿楽は寺社の修理費などを集めるための興行で、役者の腕を世に示す大舞台だった。
義円が還俗して6代将軍足利義教となると、元重は将軍の強い引き立てを受けた。一方で伯父の世阿弥と元雅は、御所での上演を禁じられるなど遠ざけられた。同じ一族のなかで、将軍との距離によって明暗がくっきりと分かれた。
世阿弥の跡継ぎだった元雅が、旅先の伊勢で亡くなった。世阿弥は深く嘆き、芸の道が絶えたと書き残した。こうして元重が観世の芸を受け継ぐ道が開けたが、世阿弥とのあいだには複雑な思いが残ったとも考えられている。
観世の一座の長である観世大夫を継ぎ、三世観世大夫となった。この年、京都の糺河原で将軍義教も見物する盛大な勧進猿楽を催し、新しい観世大夫の名を都に広く知らしめた。将軍の後ろ盾のもと、一座は大きく栄えた。
七十歳を過ぎた世阿弥が、将軍義教によって佐渡へ流された。理由ははっきりしていない。能を大成した伯父が都を去る一方、元重は将軍に重んじられる都随一の役者となっていった。二人の運命の差は、当時の芸能が権力と深く結びついていたことを示している。
気性の激しい将軍義教の機嫌をそこね、一時遠ざけられた。義教のもとでは、ささいなことで罰を受ける者が少なくなかった。このときは播磨などを治める大名の赤松満祐がとりなし、許されたと伝わる。
赤松満祐の屋敷で開かれた宴で能「鵜羽」を演じていたさなか、将軍義教が満祐の手の者に討たれた。嘉吉の乱である。大きな後ろ盾を失った元重は、その後しばらく苦しい立場に置かれた。
後ろ盾を失った苦しい時期にも、見物料を下げて勧進猿楽を開くなどして一座を支えたと伝わる。芸の力で客を集め、観世の名を守ろうとした。この粘り強さが、のちの再起へとつながった。
8代将軍足利義政に気に入られ、再び将軍家に重く用いられるようになった。義政は芸能や美術を深く愛した将軍で、元重の舞台をたびたび楽しんだ。観世の一座は、ふたたび都でいちばん勢いのある座となった。
観世大夫の地位を子の正盛にゆずり、出家して音阿弥と名のった。この名は「観世」に「音」を加えて「観世音」にちなんだものと伝わる。大夫を退いたあとも、名人として舞台に立ち続けた。
子の正盛が京都の糺河原で大規模な勧進猿楽を催し、音阿弥は29番のうち12番で主役を務めた。将軍義政も見物した。同じころ後花園上皇の前でも演じ、連歌師の心敬は「今の世の最一の上手」とたたえた。
応仁の乱が始まったこの年に亡くなった。墓は京都府京田辺市の酬恩庵にあると伝わる。世阿弥のように能の作品や芸論は残さなかったが、華やかな芸で人々をひきつけ、観世流がのちまで栄える土台を築いた名人として知られる。
足利義持足利義教一休宗純足利持氏一条兼良山名宗全日親上杉憲実
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。