日本史人生シミュレーター

松方正義

財政家・内閣総理大臣
時代:江戸末〜大正時代 / 1835年〜1924年(89歳ほど)
この人の一生をたどる(自動再生)

歩んだ道

1835年

誕生

薩摩の鹿児島で、下級の武士の家に生まれた。家は豊かではなく、少年のころに両親を相次いで亡くした。苦しい暮らしの中で学問にはげみ、藩の役人として身を立てる道を選んだ。

1850年

藩の勘定方に入る

このころ薩摩藩の役所に入り、お金や物の出し入れを扱う仕事についた。のちに藩主島津斉彬に見いだされたとされ、斉彬の進める殖産興業の考えにもふれた。財政家としての出発点となった。

1862年

島津久光に仕える

斉彬の死後、実権を握った島津久光の側近として仕えた。この年、久光の京や江戸への旅に従い、その帰り道で生麦事件がおこった。藩の政治の中心に近い所で、激しく動く時代を見つめた。

1868年

日田県の知事となる

明治新政府のもとで、九州の日田県の知事となった。地方を治めながら、偽金の取りしまりや財政の立て直しにあたった。この仕事ぶりが大久保利通らに認められ、新政府の財政の担い手として東京へ呼ばれる。

1873年

地租改正を進める

大蔵省で税の仕組みを改める地租改正の中心となった。それまでの米で納める年貢をやめ、土地の値段に応じてお金で税を納める仕組みにした。国の収入が安定し、近代国家の財政の土台がつくられた。

1878年

フランスで財政を学ぶ

パリ万国博覧会のため渡欧し、フランスで蔵相レオン・セーらから財政や中央銀行の仕組みを学んだ。ヨーロッパの国々がどのようにお金の価値を守っているかを知り、日本にも中央銀行が必要だと考えるようになった。

1881年

大蔵卿となる

明治十四年の政変で大隈重信が政府を追われると、大蔵卿となった。西南戦争の費用で紙幣が出回りすぎ、物の値段が上がっていた。松方は紙幣を減らし、支出を切りつめる厳しい政策を始めた。

1882年

日本銀行をつくる

お金の発行を一つにまとめる中央銀行として日本銀行をつくった。紙幣を減らす政策で物価は下がったが、米や生糸の値段も下がり、多くの農民が苦しんで土地を手放した。この不景気は「松方デフレ」と呼ばれる。

1885年

初代大蔵大臣となる

日本銀行が銀と交換できる紙幣を出し始め、お金の価値が安定した。この年に内閣制度ができると、伊藤博文内閣の初代大蔵大臣となった。安定した通貨は、その後の工業の発展を支える土台となった。

1891年

首相となる

内閣総理大臣となったが、組閣の直後に、来日中のロシア皇太子が警官に切りつけられる大津事件がおこった。議会との対立にも苦しみ、内閣は約1年半で終わった。政党との付き合い方は大きな課題だった。

1897年

金本位制を実現する

2度目の内閣で、日清戦争で得た賠償金をもとに、お金の価値を金で裏づける金本位制を始めた。欧米の多くの国と同じ仕組みにしたことで、外国との貿易やお金の借り入れがしやすくなった。

1917年

内大臣となる

元老として天皇に首相を推薦する役目を担い、この年には天皇をそばで助ける内大臣となった。子どもが多いことでも知られ、子の中には実業家として名を残した松方幸次郎らがいる。

1924年

死去

東京で亡くなった。下級武士の子から出発し、地租改正、日本銀行の創設、金本位制の実現など、日本の近代的なお金の仕組みづくりに大きく貢献した。松方の死で、元老は西園寺公望ただ一人となった。

この時代に起きたこと

この人の一生をたどる(自動再生)

関係する人物

島津斉彬島津久光大久保利通大隈重信伊藤博文西園寺公望副島種臣後藤象二郎

同じ時代の人物(明治)

江藤新平福沢諭吉岩崎弥太郎前島密榎本武揚五代友厚井上馨板垣退助

明治の人物一覧 ・ 時代別の人物一覧

教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。

人物一覧へ